先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんのデビュー作『せん-さく』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作はインターネット黎明期の不安とさびしさに包まれた複雑な人間関係を巧妙なプロットで描写した感動の長編ミステリです。
今回は第一章の一部をご紹介します。(#1から読む)
* * *
在来線のホームに上がると、新幹線を降りたころからぱらつき始めた雨が本降りになっていた。天気予報では明日早朝から雨と言っていたが、少しばかり雨雲のほうが早かったらしい。改札口付近の売店でビニール傘が売れていたはずだ。
雨がかからないようにホームの真ん中を歩きながら、典子はショルダーバッグからPHSを取り出した。福引きの景品としてもらったもので、もう三年近く使っている。バッテリの保ちが悪くなっているところをみると、もう買い換え時だろう。ただ、同じPHSの機種変更にするか、携帯電話に契約し直すか、迷い続けていた。
「ちょっと電話入れとくから、待ってて」
自宅に連絡を入れておかねばならない。自分は遼介と違って「家出」などするつもりはないのだから。
「正直に中学生の家出にくっついていくって言うとか?」
「まさか」
典子が笑うと、遼介は黙って少し離れたところにあるベンチへと向かった。プライベートな会話を聞いては悪いと思ったのか、いや、そんなものには最初から興味などないのだろう。
典子は短縮ボタンを押した。こんな不精をするから、余計に新しい電話番号を覚えられないのだとも思う。しかし、夫婦二人の生活では、主婦が自宅に電話を入れる機会など滅多にあるものではない。
電話を入れる機会は滅多になくとも、電話番号が必要になる機会は意外に多い。クレジットカードの伝票にサインするたびに、ボールペンが電話番号のところで止まってしまう。ときにはどうしても思い出せず、バッグから手帳を取り出す羽目に陥る。
『まだ引っ越して間もないものだから、覚えてなくて』
そんな言い訳が尋ねられもしないのに、口をついて出る。他人のカードを不正使用しているのではないかと店員が疑っているような気がしてしまうのだ。
結婚した当初もそうだった。うっかり旧姓でサインしてしまい、あわてて書き直すたびに『結婚して間もないものだから』と、言い訳せずにはいられなかった。そんな態度が、かえって怪しげに映るのではないかと思うと、ますます落ち着かなくなってしまう。それがいやで、何度も何度も新しい姓を紙に書きつけてみたりしたものだった。
もしも今の夫と離婚して、別の男と再婚したりすれば、そんな練習も一からやり直しだ。さらに離婚と再婚を繰り返せば、またもやり直し。女の姓というものは、なんて曖昧なのだろうと思う。その気になれば、いくつでも新しい名前を持つことができるのだから。
ただいま近くにおりません、という留守番電話のテープの音が典子を現実に引き戻した。夫はいないらしい。夕食をとるために外出でもしたのかもしれない。
「もしもし。私です。やっぱり、笠間に寄ってから帰ることにしたから。ごめんね」
笠間焼のコーヒーサーバーを雑誌で見たのは、ごく最近のことだった。ソーダアイスを綿で包んだような、ちょっと変わった風合いに惹かれた。欲しくてたまらなくなった。
東京に出るついでに、笠間に足を延ばしたいと言うと、夫はまたかという顔で苦笑した。ここ三年ほど、典子が和食器収集に熱中しているからである。デパートで陶器展があれば遠路厭わず見に行くし、旅行に出れば必ず陶器店を覗く。
今回は、出発直前になって予定が変わった。仕事先の担当者に「週末に東京で友人と会う」と漏らしてしまったせいだ。ならば金曜の昼間に顔を出せないかと言われた。直接打ち合わせができるなら、任せたい仕事があるから、と。
それで、土曜夜に一泊の予定だった水戸のホテルをキャンセルした。代わりに金曜夜一泊で、都内のホテルを予約し直した。さすがに二泊分のホテル代はきつい。
それに、月曜か火曜には病院に行かなければならない。体力的な面からも連泊は見合わせたかった。
「明日のうちに帰るから、病院のほうは大丈夫だと思うの。それじゃあね」
赤いボタンを押すと、典子はPHSを畳んでバッグにしまった。自宅への連絡を済ませてしまうと、あきれるくらいに心が弾んだ。ホームを歩く足取りも、いつしか小走りになる。
「終わった?」
典子はうなずいて、遼介の隣に腰を下ろした。
「もうみんな、家に着いたころかな」
腕時計を見ながら遼介が言った。
「首都圏組はまだカラオケでしょ。遠方組も新幹線か飛行機の中だろうし。今夜は泊まりって人もいたけど」
「みんな、俺と典子さんがこんなとこにいるなんて、全然想像してないよね」
「そりゃそうよ。そんなの誰にもわかるはずないじゃない」
自分自身だって、こんなことになるとは予想もしていなかったのだ。
「二時間と十五分前、か……。でも、俺、ペルさんには見破られそうな気がしてた。あの人、寄り道しないようにね、なんて意味ありげに言うしさ」
家に帰らないと決めて気が楽になったのか、遼介は饒舌になった。
「ペルの言ってたこと、また真に受けたの」
「え? もしかして、俺ってからかわれてたわけ?」
「もしかしなくても、そうよ。いつもみたいにね」
典子は、ほんの少し前までいっしょになって騒いでいたペルや他の仲間たちの顔を一人一人思い浮かべてみる。中にはもう思い出せない顔もあった。典子は人の顔を覚えるのが苦手だったし、何よりその全員が初めて顔を合わせる相手だったのだ。
(#5へ続く)