先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。
今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。
* * *
インターフォン
目眩がしそうな陽射しだった。思わずうつむくと、今度は水面からの照り返しが裸眼を直撃する。夏休み前の閑散とした有様が信じられないほど、市営プールは混雑していた。
「走っちゃだめ! 危ないでしょ!」
次男の後ろ姿に向かって叫ぶ。去年まではおとなしかったのにとため息をつく。泳ぎが苦手だった裕太は、プールに連れてきても亮子の手にしがみついて離れなかった。泳げるようになったとたん、これだ。
あと二、三年もすれば、親とプールに来ることもなくなるだろう。長男の耕介がそうだった。六年生ともなると、親と出かけるより友だちと、親と話すより一人で過ごすことを好むようになる。
「あーちゃんは、おかあさんと遊ぼうね」
兄につられて走り出しそうになる娘の手を握る。亜里はまだ三歳だ。人並みに泳げるようになった裕太についていけるはずがない。
それに、と幼児用プールを見回しながら考える。この広さが限界だ、裸眼の視力が0・1以下の者にとっては。これより広くなると、我が子とはいえ判別が難しくなる。亜里には目立つオレンジ色と赤の水着を着せているものの、油断はできない。
「松岡さん? 耕くんのおかあさんでしょ」
背後から声をかけられ、急いで振り返る。鮮やかなブルーの水着が目に入った。相手の顔は見えない。自分は泳ぐわけではないのだから、眼鏡をかけてくればよかったと思う。
「ごめんなさい。私、ひどい近眼で……」
やや大げさに首を傾げながら、目を細めてみる。たぶん団地の誰かだろうけれども、目鼻の区別をつけるのがやっと、それ以上の識別は不可能だった。
「山下です。って、名前言ってもピンとこないかもね。三年前に引っ越しちゃったから」
こうして市営プールに来ているということは、引っ越したといっても市内なのだろう。
「耕くんが一年生のとき、子供会の役員だったの」
そう言いながら、相手は顔の造作がわかる距離まで近づいてくる。が、どこかで会っているという感覚はまだない。たぶん水泳帽のせいだろう。額にかかる髪の有無だけでも印象は異なるし、顔の肉が後ろに引っ張られるゴムキャップでは実際より目が細く見える。
「ほら、自分が役員やったときの新入生と卒業生って、印象強いじゃない」
曖昧にうなずく。役員経験がない亮子には、ここで同意していいものなのか、わからなかった。耕介が小学校に入学してから六年、いまだ役員の肩書きをつけたことがない。子供会だけでなく、学校のPTAも、だ。
「妹さん、生まれたのね。何歳?」
役員をきちんと引き受けた相手を前に、いささか後ろめたい思いで、三歳ですと答える。
「じゃあ、うちが引っ越した後だったんだ。道理で覚えがないはずだわ」
なれなれしい口調から推測して、長男の耕介とは顔なじみなのだろう。亮子自身、よく知っている子供の親は、初対面であってもなんとなく気安い。
「お名前は?」
あーちゃん、と舌っ足らずな口調で亜里が答えた。
「そう、あーちゃんっていうんだ」
亜里です、と亮子は苦笑しながら口を挟んだ。末っ子のせいか、亜里は同じ年ごろの子供に比べて言動が幼い。
「これくらいのときが一番可愛いのよねえ」
ビーチボールを亜里に投げてやりながら、山下という女性はしみじみと言った。若い声の割には年寄りじみた言い方だ。自分と同じくらいか年下と思っていたけれども、もしかしたら年上かもしれない。
「お子さん、おいくつでしたっけ」
「上は高校生、下は四年生」
やっぱり年上だ、と納得しながら子供の年齢を計算する。高校生ということは、耕介が一年生のときはすでに高学年だったことになる。下の子も裕太と学年が違う。山下と言われても思い当たらなかったはずだ。我が子と同じ学年の子の苗字なら覚えているけれども、学年の違う子まではわからない。
「プールに連れてきてやっても、親のそばになんかいやしないのよ。今日は友だち連れだから余計にそう。ほら、あーちゃん、そっちに行ったわよ」
水しぶきと歓声とをあげながら、亜里がビーチボールを追いかけていく。
「可愛いわね。私も女の子が欲しかった」
どうやら、上も下も男の子らしい。亮子は、女の子のいない親向けの社交辞令を口にする。
「でも、女の子はわがままで」
「あら。わがままなくらいが可愛いのよ、女の子は」
気持ちはわかる。亮子自身、三人めを産んだのは女の子欲しさからだった。男の子なんて、何を着せてもすぐ汚し、何を食べさせても質より量、玩具は遊ぶより壊すほうが先、暴れる、走る、騒ぐ……。同じ年ごろの女の子のほうがずっと人間らしく思われ、また何をやっても可愛らしく見えたものだ。
おかあさん、と呼ぶ声で亮子は物思いから覚めた。
「ねえ、おかあさん、キズバンとれた」
振り向くよりも先に、目の前に足が突き出される。
「こら! 人の顔の前に足出すんじゃないの!」
「もういっぺん貼って」
叱責する口調で言ったのに、裕太には全くこたえていないようだ。
「どうせまた剥がれちゃうわよ。そのまま泳ぎなさい」
数日前の靴擦れのことだ。いくらなんでも治っているだろうと思っていたが、裕太はしつこく絆創膏を貼っていたらしい。
「やだ。しみる」
「ほとんど治ってるじゃない。これくらい平気でしょ」
「貼って」
いい加減にして、と言いかけたときだった。
「あーちゃんなら見ててあげるわよ。行ってきたら? 男の子は頑固だもの、そのほうが絶対早いって」
「すみません」
「いいのよ。気にしないで」
「すぐ戻りますから」
小さく頭を下げると、亮子は立ち上がった。
(#2へ続く)
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