先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。
今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。(#1から読む)
* * *
ロッカーから携帯用の救急セットを取り出し、裕太の踵に絆創膏を貼ってやり、財布から百円硬貨を二枚出して再び施錠し……五分とかからなかったはずだった。幼児用プールとロッカールームまでの往復にかかった時間を加えても、せいぜい七、八分。亜里が退屈してぐずるような時間ではなかった。
なのに、戻ってみると、幼児用プールには亜里も、山下という女性もいなかった。亜里がトイレに行きたいとでも言い出したのだろう。亮子は急いでプールサイドの片隅にあるトイレへと向かう。
こんなことなら、やっぱり亜里もいっしょに連れていけばよかった。ロッカールームの中にもトイレはある。一言、「トイレ行きたくない?」と亜里に訊けばよかったのだ。
トイレの前にブルーの水着姿はない。とすれば、いっしょに中に入ったのだろうか。そうかもしれない。男の子は女の子よりもトイレ・トレーニングが遅い。あの山下という人は男の子しか育てたことがないのだから、まだ一人では無理だと思ったのだろう。
悪いことをした、これは謝っておかなければと思いながら、亮子はトイレの前で待った。お互いに顔見知りならば、よその子をトイレに連れていくくらい、どうということはないが、相手は初対面である。いや、挨拶くらいは交わしたことがあるのだろう。相手は亮子の顔を知っていたのだから。とはいえ、ここまで手を煩わせていい道理にはならない。
トイレのドアが開いた。ごめんなさいね、と言いかけた亮子は呆然とした。亜里ではなかった。スクール水着の女の子が一人、亮子の脇をすり抜けるようにして駆け出していく。
トイレではないとすると、やっぱり亜里がぐずり出したということだ。あわてて亮子は踵を返した。念のためにプールサイドを見回しながら、ロッカールームへと向かう。きっと途中で入れ違いになってしまったのだろう。
「あーちゃん?」
立ち並ぶロッカーの間をひとつひとつのぞき込みながら、亜里を呼んでみる。返事はない。また入れ違いになったらしい。考えてみれば、亜里が本格的にぐずったときの声はすさまじい。ロッカールームにいたのなら、中をのぞくまでもなく聞こえるはずだった。
山下という人も、さぞ戸惑ったことだろう。ごめんなさい、とんだご迷惑をおかけして、大変だったでしょう……。彼女への謝罪の言葉がいくつも浮かんだ。露骨に不愉快な顔をされませんようにと祈らずにいられない。
半ば小走りに幼児用プールに引き返す。いない。オレンジと赤も、鮮やかなブルーも、見当たらない。どこへ行ってしまったのだろう。おにいちゃんのところへ行く、とでも言い出したのだろうか。
裕太がいるはずの二十五メートルプールを見に行こうとして、亮子は足を止める。このまま行ったとしても、誰が誰やら判別がつかない。眼鏡を取りに行かなければ。自分の要領の悪さが腹立たしかった。どうして、さっきロッカールームをのぞいたときに、眼鏡を取り出しておかなかったのか。
眼鏡をかけると、亮子は二十五メートルプールの周りを見て回った。売店、パラソルを並べた休憩所、ベンチ。また入れ違いにならないように、時折、幼児用プールのほうにも目を走らせる。いない……。亜里を見つけるよりも先に、裕太が不格好なクロールで泳いでいるのを発見する。
「裕太! ちょっと来て!」
仕方なさそうな顔で裕太が泳いでくる。
「あんた、亜里知らない?」
「知らない」
「見当たらないの。あんたも捜してくれない」
えーっ、という不満そうな声を無視して、亮子は続けた。
「山下さんっていう女の人といっしょだと思うんだけど。見つけたら、小さいプールのところで待っててちょうだい」
もう一度、プールサイドをぐるりと歩き、トイレとロッカールームを見に行った。それにしても、どこへ行ってしまったんだろう。まさか、外に出たいと亜里がぐずったんだろうか。頭を抱えて座り込みたい気分だった。
こうなると、同じ団地の人間でないのはかえって救いだった。今日はそれこそ平身低頭で謝らなければならないけれども、明日からは忘れてしまえる。顔を合わせるたびに気まずい思いをしなくてもすむ。
結局、自力では亜里を見つけられずに、アナウンスを流してもらうことにした。
「迷子さんですか」
アルバイトらしい若い女の子がメモ用紙を片手に尋ねてくる。
「いえ。ちょっと行き違いになってしまって」
迷子として放送してもらうのは抵抗があった。せっかく面倒を見てやったのに迷子扱いされたのでは、誰だって気を悪くする。
「山下という人を呼び出していただけますか」
「どちらからお越しですか?」
彼女の現住所など知らない。そこまで突っ込んだ話はしていなかった。仕方なく、亮子は団地の名前を出した。昔住んでいた団地の名前が出れば、聞き流すこともないだろう。
「**団地の山下様ですね。お連れ様のお名前は?」
「松岡です」
「お待ち合わせの場所は、この管理事務所前でよろしいですか」
頼りなさそうな外見と裏腹に、しっかりした対応だった。亮子はほっとして、お願いしますと頭を下げた。拡声器の音は、プールサイドの喧噪に負けないくらいよく響く。これなら外にいても聞こえるはずだ。
「松岡さん」
ああよかったという安堵感で緩みかけた頬を引き締め、精一杯申し訳なさそうな顔を作ってから亮子は振り向く。
「うちの団地の名前が出たから、びっくりしちゃった。はぐれたの?」
違った。耕介のクラスメートの母親だった。が、落胆を押し隠して、亮子は笑顔を作る。
「そうなのよ。私、目が悪いでしょ? あわてて眼鏡を取りに行ったんだけど」
「ああ、わかるわかる。不便なのよねえ」
「そういえば、リナちゃんと同じ学年の山下さんちって、どこに引っ越したかわかる?」
上の子は耕介と同級生だったが、確か下の子は四年生だった。
「山下さん? そんな人いたっけ」
「耕介とナオくんが一年生のとき、子供会の役員だったらしいんだけど。覚えてない?」
相手は首を傾げるばかりだったが、無理もない。亮子も全く思い出せなかったのだ。
「やっぱり印象の薄い人だったのね」
「理奈の同級生に山下なんて子はいないわよ。それに、三年前に引っ越した人はB棟の中野さんだけよ。私、役員二回やったから覚えてるもの」
相手の目がいくらか意地悪く光ったように見えたのは、自分が一度も役員をやっていないという負い目のせいだろうか。
「じゃあ……私が聞き間違えたのかしら」
「本当にうちの団地から引っ越していった人なの?」
いやな予感がした。
「だって、私が旗振りの当番表作ったとき、山下って一人しかいなかったわ。C棟の山下敏子ちゃん」
今度は亜里の名前を出して迷子の放送を流してもらい、しばらく待ってみたけれども、何の反応もなかった。
入場券売場の女性にも尋ねてみたが、無駄足に終わった。午後二時という出入りの最も多い時間帯である。「三歳くらいの女の子を連れた女性」だけでは、あまりにも該当者が多すぎるのだ。
「警察に連絡しましょうか。近ごろは物騒な事件が多いことだし」
さすがに管理事務所の若い女の子も不審に思ったのだろう。心配そうな顔を亮子に向けてくる。
「いえ、まだ……。先に自宅に電話してみますから。もしかしたら、あんまりぐずるから先に帰ったのかもしれないし」
あり得ない話だとは思う。いくらひどくぐずったからといって、親に一言の断りもなく自宅に連れ帰るはずがない。しかし、警察に届けるのはまだ抵抗があった。ちょっとした行き違いだと、まだ信じていたかった。
「よかったら、電話使ってください」
事務所の女の子の気遣いに感謝しながら、亮子は携帯電話を持ってきているからと断った。事務所の片隅を借りて、携帯のボタンを押す。耕介が自宅にいるはずだ。
「耕介? 亜里、家に帰ってない?」
帰ってないよ、という答えに、亮子は言葉を失った。
「わかったわ。おかあさんが帰るまで、家にいてね。今日は出かけちゃだめよ」
いったん家に帰ったら、警察に連絡しなければ。きっと親の不注意だとなじられるだろう。どうして見ず知らずの他人を信用したりしたのか、と。
見ず知らずの他人だと思わなかったのだ。相手は亮子の顔も名前も知っていたし、耕介のことも知っていた。三年前まで同じ団地に住んでいたと言ったし、ふだん顔を合わせる母親たちと何ら違いはなかった。「見ててあげるわよ」という言葉だって、公園で、児童館で、団地の中庭で、母親同士が頻繁に使うものだ。何をどう疑えというのか。
『亜里がどうかしたの』
子供にどこまで話していいものか。ちょっとね、と亮子は言葉を濁した。
『おとうさんに電話した? 警察よりも先に、おとうさんに訊いてみたほうがいいよ』
いつの間にこんな大人びた物言いをするようになったのだろう。耕介の言葉に戸惑いながらも、亮子は電話を切った。次は夫だ。耕介の言うとおり、警察よりも先に夫に相談すべきだった。こんな判断もつかなくなるなんて、どうかしている。
滅多に使わないとわかっていても、会社の直通番号を登録しておいてよかった。運良く電話をとったのも夫だった。
「もしもし? 私です。仕事中にごめんなさい。亜里が……」
夫の声を聞いたとたん、目の前がぼやけた。
(#3へ続く)
永嶋恵美さん作『せん-さく』の試し読みも公開中!