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インターフォン

2025.01.07 公開 ポスト

#2 一瞬の違和感が、すべてを変える。永嶋恵美

先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。

この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。

今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。(#1から読む

*   *   *

ロッカーから携帯用の救急セットを取り出し、裕太のかかとに絆創膏を貼ってやり、財布から百円硬貨を二枚出して再び施錠し……五分とかからなかったはずだった。幼児用プールとロッカールームまでの往復にかかった時間を加えても、せいぜい七、八分。亜里が退屈してぐずるような時間ではなかった。

なのに、戻ってみると、幼児用プールには亜里も、山下という女性もいなかった。亜里がトイレに行きたいとでも言い出したのだろう。亮子は急いでプールサイドの片隅にあるトイレへと向かう。

こんなことなら、やっぱり亜里もいっしょに連れていけばよかった。ロッカールームの中にもトイレはある。一言、「トイレ行きたくない?」と亜里に訊けばよかったのだ。

トイレの前にブルーの水着姿はない。とすれば、いっしょに中に入ったのだろうか。そうかもしれない。男の子は女の子よりもトイレ・トレーニングが遅い。あの山下という人は男の子しか育てたことがないのだから、まだ一人では無理だと思ったのだろう。

悪いことをした、これは謝っておかなければと思いながら、亮子はトイレの前で待った。お互いに顔見知りならば、よその子をトイレに連れていくくらい、どうということはないが、相手は初対面である。いや、挨拶くらいは交わしたことがあるのだろう。相手は亮子の顔を知っていたのだから。とはいえ、ここまで手を煩わせていい道理にはならない。

トイレのドアが開いた。ごめんなさいね、と言いかけた亮子は呆然とした。亜里ではなかった。スクール水着の女の子が一人、亮子の脇をすり抜けるようにして駆け出していく。

トイレではないとすると、やっぱり亜里がぐずり出したということだ。あわてて亮子はきびすを返した。念のためにプールサイドを見回しながら、ロッカールームへと向かう。きっと途中で入れ違いになってしまったのだろう。

「あーちゃん?」

立ち並ぶロッカーの間をひとつひとつのぞき込みながら、亜里を呼んでみる。返事はない。また入れ違いになったらしい。考えてみれば、亜里が本格的にぐずったときの声はすさまじい。ロッカールームにいたのなら、中をのぞくまでもなく聞こえるはずだった。

山下という人も、さぞ戸惑ったことだろう。ごめんなさい、とんだご迷惑をおかけして、大変だったでしょう……。彼女への謝罪の言葉がいくつも浮かんだ。露骨に不愉快な顔をされませんようにと祈らずにいられない。

半ば小走りに幼児用プールに引き返す。いない。オレンジと赤も、鮮やかなブルーも、見当たらない。どこへ行ってしまったのだろう。おにいちゃんのところへ行く、とでも言い出したのだろうか。

裕太がいるはずの二十五メートルプールを見に行こうとして、亮子は足を止める。このまま行ったとしても、誰が誰やら判別がつかない。眼鏡を取りに行かなければ。自分の要領の悪さが腹立たしかった。どうして、さっきロッカールームをのぞいたときに、眼鏡を取り出しておかなかったのか。

眼鏡をかけると、亮子は二十五メートルプールの周りを見て回った。売店、パラソルを並べた休憩所、ベンチ。また入れ違いにならないように、時折、幼児用プールのほうにも目を走らせる。いない……。亜里を見つけるよりも先に、裕太が不格好なクロールで泳いでいるのを発見する。

「裕太! ちょっと来て!」

仕方なさそうな顔で裕太が泳いでくる。

「あんた、亜里知らない?」

「知らない」

「見当たらないの。あんたも捜してくれない」

えーっ、という不満そうな声を無視して、亮子は続けた。

「山下さんっていう女の人といっしょだと思うんだけど。見つけたら、小さいプールのところで待っててちょうだい」

もう一度、プールサイドをぐるりと歩き、トイレとロッカールームを見に行った。それにしても、どこへ行ってしまったんだろう。まさか、外に出たいと亜里がぐずったんだろうか。頭を抱えて座り込みたい気分だった。

こうなると、同じ団地の人間でないのはかえって救いだった。今日はそれこそ平身低頭で謝らなければならないけれども、明日からは忘れてしまえる。顔を合わせるたびに気まずい思いをしなくてもすむ。

結局、自力では亜里を見つけられずに、アナウンスを流してもらうことにした。

「迷子さんですか」

アルバイトらしい若い女の子がメモ用紙を片手に尋ねてくる。

「いえ。ちょっと行き違いになってしまって」

迷子として放送してもらうのは抵抗があった。せっかく面倒を見てやったのに迷子扱いされたのでは、誰だって気を悪くする。

「山下という人を呼び出していただけますか」

「どちらからお越しですか?」

彼女の現住所など知らない。そこまで突っ込んだ話はしていなかった。仕方なく、亮子は団地の名前を出した。昔住んでいた団地の名前が出れば、聞き流すこともないだろう。

「**団地の山下様ですね。お連れ様のお名前は?」

「松岡です」

「お待ち合わせの場所は、この管理事務所前でよろしいですか」

頼りなさそうな外見と裏腹に、しっかりした対応だった。亮子はほっとして、お願いしますと頭を下げた。拡声器の音は、プールサイドの喧噪けんそうに負けないくらいよく響く。これなら外にいても聞こえるはずだ。

「松岡さん」

ああよかったという安堵感で緩みかけた頬を引き締め、精一杯申し訳なさそうな顔を作ってから亮子は振り向く。

「うちの団地の名前が出たから、びっくりしちゃった。はぐれたの?」

違った。耕介のクラスメートの母親だった。が、落胆を押し隠して、亮子は笑顔を作る。

「そうなのよ。私、目が悪いでしょ? あわてて眼鏡を取りに行ったんだけど」

「ああ、わかるわかる。不便なのよねえ」

「そういえば、リナちゃんと同じ学年の山下さんちって、どこに引っ越したかわかる?」

上の子は耕介と同級生だったが、確か下の子は四年生だった。

「山下さん? そんな人いたっけ」

「耕介とナオくんが一年生のとき、子供会の役員だったらしいんだけど。覚えてない?」

相手は首を傾げるばかりだったが、無理もない。亮子も全く思い出せなかったのだ。

「やっぱり印象の薄い人だったのね」

「理奈の同級生に山下なんて子はいないわよ。それに、三年前に引っ越した人はB棟の中野さんだけよ。私、役員二回やったから覚えてるもの」

相手の目がいくらか意地悪く光ったように見えたのは、自分が一度も役員をやっていないという負い目のせいだろうか。

「じゃあ……私が聞き間違えたのかしら」

「本当にうちの団地から引っ越していった人なの?」

いやな予感がした。

「だって、私が旗振りの当番表作ったとき、山下って一人しかいなかったわ。C棟の山下敏子ちゃん」

今度は亜里の名前を出して迷子の放送を流してもらい、しばらく待ってみたけれども、何の反応もなかった。

入場券売場の女性にも尋ねてみたが、無駄足に終わった。午後二時という出入りの最も多い時間帯である。「三歳くらいの女の子を連れた女性」だけでは、あまりにも該当者が多すぎるのだ。

「警察に連絡しましょうか。近ごろは物騒な事件が多いことだし」

さすがに管理事務所の若い女の子も不審に思ったのだろう。心配そうな顔を亮子に向けてくる。

「いえ、まだ……。先に自宅に電話してみますから。もしかしたら、あんまりぐずるから先に帰ったのかもしれないし」

あり得ない話だとは思う。いくらひどくぐずったからといって、親に一言の断りもなく自宅に連れ帰るはずがない。しかし、警察に届けるのはまだ抵抗があった。ちょっとした行き違いだと、まだ信じていたかった。

「よかったら、電話使ってください」

事務所の女の子の気遣いに感謝しながら、亮子は携帯電話を持ってきているからと断った。事務所の片隅を借りて、携帯のボタンを押す。耕介が自宅にいるはずだ。

「耕介? 亜里、家に帰ってない?」

帰ってないよ、という答えに、亮子は言葉を失った。

「わかったわ。おかあさんが帰るまで、家にいてね。今日は出かけちゃだめよ」

いったん家に帰ったら、警察に連絡しなければ。きっと親の不注意だとなじられるだろう。どうして見ず知らずの他人を信用したりしたのか、と。

見ず知らずの他人だと思わなかったのだ。相手は亮子の顔も名前も知っていたし、耕介のことも知っていた。三年前まで同じ団地に住んでいたと言ったし、ふだん顔を合わせる母親たちと何ら違いはなかった。「見ててあげるわよ」という言葉だって、公園で、児童館で、団地の中庭で、母親同士が頻繁に使うものだ。何をどう疑えというのか。

『亜里がどうかしたの』

子供にどこまで話していいものか。ちょっとね、と亮子は言葉を濁した。

『おとうさんに電話した? 警察よりも先に、おとうさんに訊いてみたほうがいいよ』

いつの間にこんな大人びた物言いをするようになったのだろう。耕介の言葉に戸惑いながらも、亮子は電話を切った。次は夫だ。耕介の言うとおり、警察よりも先に夫に相談すべきだった。こんな判断もつかなくなるなんて、どうかしている。

滅多に使わないとわかっていても、会社の直通番号を登録しておいてよかった。運良く電話をとったのも夫だった。

「もしもし? 私です。仕事中にごめんなさい。亜里が……」

夫の声を聞いたとたん、目の前がぼやけた。

(#3へ続く)

永嶋恵美さん作『せん-さく』の試し読みも公開中!

関連書籍

永嶋恵美『インターフォン』

市営プールで見知らぬ女に声をかけられた。昔、同じ団地の役員だったという。気を許した隙、三歳の娘が誘拐された。茫然とする私に六年生の長男が「心当たりがある」と言う(表題作)。頻繁に訪れる老女の恐怖(「隣人」)、暇を持て余す主婦四人組の蠱惑(「団地妻」)等、団地のダークな人間関係を鮮やかに描いた十の傑作ミステリ。

永嶋恵美『せん-さく』

「俺、帰りたくなくって」29歳の主婦・典子は、ネットのオフ会で知り合った15歳の遼介から別れ際、告げられる。典子は家出を思いとどまらせようと少しだけつきあうことにしたが、彼はなかなか帰らない。道行きの途中、二人は遼介の級友の両親が殺され、友人自身も行方不明だと知る……。現代人の不安とさびしさをすくい取った感動の長編ミステリ。

永嶋恵美『明日の話はしない』

難病で何年も入退院を繰り返し人生を諦観する小学生。男に金を持ち逃げされ無一文のオカマのホームレス。大学中退後に職を転々、いまはスーパーのレジで働く26歳の元OL。別々の時代、場所で生きた三人が自らに課した共通のルールが「明日の話はしない」だった。過失、悪意、転落――三つの運命的ストーリーが交錯し、絶望が爆発するミステリ。

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インターフォン

先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。

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今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。

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