先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。
今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。(#1から読む)
* * *
夫の声を聞いたとたん、目の前がぼやけた。
「いなくなっちゃったの。亜里が。どこにも。誘拐……かもしれない」
誘拐。さっきからずっと目をそらし続けてきた言葉。取り返しのつかないことを口走ってしまったような気がした。
「知り合いだと思ったの。同じ団地の山下って名乗ったから。耕くんのおかあさんでしょって、声かけてきたし。親切そうな人だったわ」
一度くらい役員をやっておけばよかった。そうすれば、団地内の子供たちの苗字くらい覚える。山下という苗字の男の子がいないことくらい、即座に見抜けたはずだ。
「目を離したのだって、ほんの数分なのよ。なのに……」
通報したかと問われ、亮子はしていないと答える。
「まだよ。耕介が、先におとうさんに訊いてみたほうがいいよって。私、そんなことも思いつかなくて」
早く電話を切らなければ。警察に通報するために。
「ねえ、どうして亜里なの」
無駄話をする暇などない。わかっていたけれども、止まらなかった。
「連れていくなら、よその家の子でもいいじゃない。うちは全然お金なんかないし、他人から恨まれるほど幸せでもないのよ」
受話器の向こうが沈黙した。亮子は何も言わずにクリアボタンを押した。事務所の女の子は決まり悪げにうつむいている。みっともない真似をしてしまった。
何か言わなければと焦っていると、着メロが鳴った。夫が折り返しかけてきたのだろう。今度は感情的にならずに相談しよう、と自分に言い聞かせる。
『おとうさんに電話した?』
夫ではなく、耕介だった。
「したけど……」
『何か言ってた?』
別に、と答えながら訝しく思う。まるで夫が何か知っているような口振りではないか。
『警察に電話はしてないよね』
なぜだろう。なぜ、耕介はさっきから警察のことを気にしているのだろう。
『ひとつだけ、心当たりがあるんだ』
裕太を近所の家に預け、耕介と二人でバスに乗った。団地の最寄り駅と隣の駅との間を走る循環バスの内回り線。最寄り駅ではなく隣の駅に向かうのだろう。
「どこ行くの」
耕介は黙って窓の外を見ている。こうして隣に並んで立つと、はっきりわかるほど亮子より背が高い。吊革を摑む手も、いつの間にか夫の手とそっくりになっている。ついこの間までは、ぷくぷくした子供の手だったのに。
考えてみれば、変声期特有の妙な掠れ声でしゃべっていたのは一年も前のこと。小学生といえば幼い響きがあるが、あと半年あまりで中学生になる。すでに子供よりも大人に近いところにいるのだ……。そんな寂しいような、疎ましいような思いを振り払いたくて、亮子は言葉を押し出した。
「心当たりって、何?」
「山下さんち」
「あんた、知ってるの!?」
耕くんが一年生のときの役員で、という言葉が耳もとに蘇った。
「じゃあ、団地に住んでたっていうの、嘘じゃなかったのね」
「嘘だよ」
亮子はぽかんとして耕介を見つめる。
「上北沢」
「え?」
「去年か一昨年くらいまでは、上北沢に住んでたんだって」
同じ沿線の駅だった。足許がひどく揺れる。亮子は必死で吊革を握りしめた。
「おとうさんの彼女」
バスが停まった。大きなスポーツバッグを抱えた中学生が数人、盛大な足音をたてて乗り込んでくる。
「たぶん、その人じゃないかと思う。亜里を連れてったのって」
「どうして……」
やはり窓の外を向いたまま、耕介がぽつりと答えた。自分も誘拐されそうになったことがあるから、と。そして、それきり口を開こうとはしなかった。
耕介が再び口を開いたのは、バスを降りてからだった。住宅街と商店街のちょうど境目辺りで、夕刻と呼ぶには少々早かったが、買い物袋を提げた主婦の姿が目立つ。
「誘拐されそうになったって、どういうこと」
「おとうさんが待ってるから行こうって言われて、車に乗った」
「知らない人についていっちゃだめって、あれほど注意してたのに」
「知らない人じゃなかった。おとうさんと二人で出かけたとき、会ったことがあるから」
そういえば、喘息持ちで病弱だった裕太に亮子がかかりっきりになっていた分、耕介は父親と過ごす時間が長かった。
「会ったって、どこで?」
「団地の公園とか、駅前のコンビニとか。いつも向こうから話しかけてきた。あれって、待ち伏せしてたんじゃないかな。おとうさん、マジで驚いてたみたいだし」
子供の目というものは存外鋭い。夫はもっともらしく言い繕ったに違いないが、耕介はすぐに二人の関係を見抜いたのだろう。或いは、それとわかるほど露骨にあの女は……。
そのときだった。携帯が鳴った。夫に違いない。亮子はバッグの中に手を突っ込むと、通話ボタンではなくクリアボタンを押した。とても夫と話す気になれなかった。
「それ、いつの話?」
電話などなかったかのように、亮子は話を続けた。
「最初に会ったのは、二年生くらいだったかなあ。誘拐未遂は、三年生の春休み」
思い出した。体調を崩して、寝たり起きたりしていたころだ。気づかないはずだ、と思う。夫の言動に注意を払うような余裕はまるでなかった。
いや、見て見ぬふりをしていただけで、本当は気づいていたのだろう。体調不良もストレスが原因と診断された。心をごまかした分だけ体が病んだのだ。もっとも、結果的にはそれが夫を引き戻すことにつながった。
だからだ。あの女は夫の気を引こうとして、耕介を誘拐するなどという暴挙に及んだに違いない。それが裏目に出た。自分は健康を取り戻し、あの女は捨てられた。後ろめたさからか、夫は以前にも増して優しくなり、それからまもなく亮子は妊娠した……。
「ここだよ」
五階建てのマンションだった。タイル貼りの外壁はまだ新しい。郵便受けのネームプレートを確認することもなく、耕介は階段を昇っていく。以前にも来たことがあるのかと訊くまでもないほど、確かな足取りだった。
ここのインターフォンにはカメラがついているからと言われ、亮子はドアから離れた場所で待った。耕介がインターフォンに向かって「松岡です」と話しかけているのが見える。亮子はとっさに目をそらす。大人びた、それも背伸びをしている様子のないごく自然な物言いが、たまらなく不愉快だった。
ドアが開いた。頭の中で、何かが弾け飛んだ。亮子はドアに向かって突進する。
「亜里を返して! いるんでしょ!」
大きく見開かれた目。ウェーブのとれかけた、中途半端な長さの髪、こんな顔だったのかと意外に思う。決して若くはない。それがかえって怒りに油を注いだ。
「亜里! おかあさんよ!」
立ちはだかろうとする相手を押しのけ、部屋に駆け込んだ。リビングのガラス戸を力任せに開け放つ。……いた。ソファの上で眠っている。見覚えのないピンクのワンピースは、あの女が用意したのだろう。
「あーちゃん、起きなさい。帰るわよ」
軽く揺さぶりながら、抱き上げる。がくりと頭が後ろにのけぞった。
「亜里?」
頬を叩いてみる。起きない。頭から血の気が引くのがよくわかった。
「ちょっと、あんた!」
リビングの入り口で呆然と立ち尽くしている女の胸ぐらを摑んだ。
「どういうことよ! 亜里に何をしたのよ!」
怒りのあまり、目の前がどす黒く見える。亮子は二度、三度と相手を揺さぶった。
「おかあさん、やめなよ。眠ってるだけだってさ」
思いのほか強い力で引き離され、亮子はよろけて後ずさる。同時に、自分が靴を履いたままだったことに気づく。
「帰ろうよ」
亜里を抱き上げたのは、耕介だった。背後で、女が声をあげて泣き崩れた。
(#4へ続く)
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