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インターフォン

2025.01.08 公開 ポスト

#3 壊れたものを取り戻すために、すべてをかけて永嶋恵美

先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。

この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。

今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。(#1から読む

*   *   *

夫の声を聞いたとたん、目の前がぼやけた。

「いなくなっちゃったの。亜里が。どこにも。誘拐……かもしれない」

誘拐。さっきからずっと目をそらし続けてきた言葉。取り返しのつかないことを口走ってしまったような気がした。

「知り合いだと思ったの。同じ団地の山下って名乗ったから。耕くんのおかあさんでしょって、声かけてきたし。親切そうな人だったわ」

一度くらい役員をやっておけばよかった。そうすれば、団地内の子供たちの苗字くらい覚える。山下という苗字の男の子がいないことくらい、即座に見抜けたはずだ。

「目を離したのだって、ほんの数分なのよ。なのに……」

通報したかと問われ、亮子はしていないと答える。

「まだよ。耕介が、先におとうさんに訊いてみたほうがいいよって。私、そんなことも思いつかなくて」

早く電話を切らなければ。警察に通報するために。

「ねえ、どうして亜里なの」

無駄話をする暇などない。わかっていたけれども、止まらなかった。

「連れていくなら、よその家の子でもいいじゃない。うちは全然お金なんかないし、他人から恨まれるほど幸せでもないのよ」

受話器の向こうが沈黙した。亮子は何も言わずにクリアボタンを押した。事務所の女の子は決まり悪げにうつむいている。みっともない真似をしてしまった。

何か言わなければと焦っていると、着メロが鳴った。夫が折り返しかけてきたのだろう。今度は感情的にならずに相談しよう、と自分に言い聞かせる。

『おとうさんに電話した?』

夫ではなく、耕介だった。

「したけど……」

『何か言ってた?』

別に、と答えながらいぶかしく思う。まるで夫が何か知っているような口振りではないか。

『警察に電話はしてないよね』

なぜだろう。なぜ、耕介はさっきから警察のことを気にしているのだろう。

『ひとつだけ、心当たりがあるんだ』

裕太を近所の家に預け、耕介と二人でバスに乗った。団地の最寄り駅と隣の駅との間を走る循環バスの内回り線。最寄り駅ではなく隣の駅に向かうのだろう。

「どこ行くの」

耕介は黙って窓の外を見ている。こうして隣に並んで立つと、はっきりわかるほど亮子より背が高い。吊革を摑む手も、いつの間にか夫の手とそっくりになっている。ついこの間までは、ぷくぷくした子供の手だったのに。

考えてみれば、変声期特有の妙な掠れ声でしゃべっていたのは一年も前のこと。小学生といえば幼い響きがあるが、あと半年あまりで中学生になる。すでに子供よりも大人に近いところにいるのだ……。そんな寂しいような、疎ましいような思いを振り払いたくて、亮子は言葉を押し出した。

「心当たりって、何?」

「山下さんち」

「あんた、知ってるの!?」

耕くんが一年生のときの役員で、という言葉が耳もとに蘇った。

「じゃあ、団地に住んでたっていうの、嘘じゃなかったのね」

「嘘だよ」

亮子はぽかんとして耕介を見つめる。

「上北沢」

「え?」

「去年か一昨年くらいまでは、上北沢に住んでたんだって」

同じ沿線の駅だった。足許あしもとがひどく揺れる。亮子は必死で吊革を握りしめた。

「おとうさんの彼女」

バスが停まった。大きなスポーツバッグを抱えた中学生が数人、盛大な足音をたてて乗り込んでくる。

「たぶん、その人じゃないかと思う。亜里を連れてったのって」

「どうして……」

やはり窓の外を向いたまま、耕介がぽつりと答えた。自分も誘拐されそうになったことがあるから、と。そして、それきり口を開こうとはしなかった。

耕介が再び口を開いたのは、バスを降りてからだった。住宅街と商店街のちょうど境目辺りで、夕刻と呼ぶには少々早かったが、買い物袋を提げた主婦の姿が目立つ。

「誘拐されそうになったって、どういうこと」

「おとうさんが待ってるから行こうって言われて、車に乗った」

「知らない人についていっちゃだめって、あれほど注意してたのに」

「知らない人じゃなかった。おとうさんと二人で出かけたとき、会ったことがあるから」

そういえば、喘息持ちで病弱だった裕太に亮子がかかりっきりになっていた分、耕介は父親と過ごす時間が長かった。

「会ったって、どこで?」

「団地の公園とか、駅前のコンビニとか。いつも向こうから話しかけてきた。あれって、待ち伏せしてたんじゃないかな。おとうさん、マジで驚いてたみたいだし」

子供の目というものは存外鋭い。夫はもっともらしく言い繕ったに違いないが、耕介はすぐに二人の関係を見抜いたのだろう。あるいは、それとわかるほど露骨にあの女は……。

そのときだった。携帯が鳴った。夫に違いない。亮子はバッグの中に手を突っ込むと、通話ボタンではなくクリアボタンを押した。とても夫と話す気になれなかった。

「それ、いつの話?」

電話などなかったかのように、亮子は話を続けた。

「最初に会ったのは、二年生くらいだったかなあ。誘拐未遂は、三年生の春休み」

思い出した。体調を崩して、寝たり起きたりしていたころだ。気づかないはずだ、と思う。夫の言動に注意を払うような余裕はまるでなかった。

いや、見て見ぬふりをしていただけで、本当は気づいていたのだろう。体調不良もストレスが原因と診断された。心をごまかした分だけ体が病んだのだ。もっとも、結果的にはそれが夫を引き戻すことにつながった。

だからだ。あの女は夫の気を引こうとして、耕介を誘拐するなどという暴挙に及んだに違いない。それが裏目に出た。自分は健康を取り戻し、あの女は捨てられた。後ろめたさからか、夫は以前にも増して優しくなり、それからまもなく亮子は妊娠した……。

「ここだよ」

五階建てのマンションだった。タイル貼りの外壁はまだ新しい。郵便受けのネームプレートを確認することもなく、耕介は階段を昇っていく。以前にも来たことがあるのかと訊くまでもないほど、確かな足取りだった。

ここのインターフォンにはカメラがついているからと言われ、亮子はドアから離れた場所で待った。耕介がインターフォンに向かって「松岡です」と話しかけているのが見える。亮子はとっさに目をそらす。大人びた、それも背伸びをしている様子のないごく自然な物言いが、たまらなく不愉快だった。

ドアが開いた。頭の中で、何かが弾け飛んだ。亮子はドアに向かって突進する。

「亜里を返して! いるんでしょ!」

大きく見開かれた目。ウェーブのとれかけた、中途半端な長さの髪、こんな顔だったのかと意外に思う。決して若くはない。それがかえって怒りに油を注いだ。

「亜里! おかあさんよ!」

立ちはだかろうとする相手を押しのけ、部屋に駆け込んだ。リビングのガラス戸を力任せに開け放つ。……いた。ソファの上で眠っている。見覚えのないピンクのワンピースは、あの女が用意したのだろう。

「あーちゃん、起きなさい。帰るわよ」

軽く揺さぶりながら、抱き上げる。がくりと頭が後ろにのけぞった。

「亜里?」

頬を叩いてみる。起きない。頭から血の気が引くのがよくわかった。

「ちょっと、あんた!」

リビングの入り口で呆然と立ち尽くしている女の胸ぐらを摑んだ。

「どういうことよ! 亜里に何をしたのよ!」

怒りのあまり、目の前がどす黒く見える。亮子は二度、三度と相手を揺さぶった。

「おかあさん、やめなよ。眠ってるだけだってさ」

思いのほか強い力で引き離され、亮子はよろけて後ずさる。同時に、自分が靴を履いたままだったことに気づく。

「帰ろうよ」

亜里を抱き上げたのは、耕介だった。背後で、女が声をあげて泣き崩れた。

(#4へ続く)

永嶋恵美さん作『せん-さく』の試し読みも公開中!

関連書籍

永嶋恵美『インターフォン』

市営プールで見知らぬ女に声をかけられた。昔、同じ団地の役員だったという。気を許した隙、三歳の娘が誘拐された。茫然とする私に六年生の長男が「心当たりがある」と言う(表題作)。頻繁に訪れる老女の恐怖(「隣人」)、暇を持て余す主婦四人組の蠱惑(「団地妻」)等、団地のダークな人間関係を鮮やかに描いた十の傑作ミステリ。

永嶋恵美『せん-さく』

「俺、帰りたくなくって」29歳の主婦・典子は、ネットのオフ会で知り合った15歳の遼介から別れ際、告げられる。典子は家出を思いとどまらせようと少しだけつきあうことにしたが、彼はなかなか帰らない。道行きの途中、二人は遼介の級友の両親が殺され、友人自身も行方不明だと知る……。現代人の不安とさびしさをすくい取った感動の長編ミステリ。

永嶋恵美『明日の話はしない』

難病で何年も入退院を繰り返し人生を諦観する小学生。男に金を持ち逃げされ無一文のオカマのホームレス。大学中退後に職を転々、いまはスーパーのレジで働く26歳の元OL。別々の時代、場所で生きた三人が自らに課した共通のルールが「明日の話はしない」だった。過失、悪意、転落――三つの運命的ストーリーが交錯し、絶望が爆発するミステリ。

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先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。

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今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。

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