先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。
今回は表題作『インターフォン』の一部をご紹介します。(#1から読む)
* * *
あの後、どうやって部屋を出たのか、どこでタクシーを拾ったのやら、さっぱりわからなかった。気がつくと、近所の小児科医院の処置室にいた。事情を尋ねられて「留守中に誤って睡眠薬を飲んだ」と答えたのは、果たして正解だったかどうか。
けれども、本当のことを話せば警察沙汰になる。夫の愛人が捨てられた腹いせに、睡眠薬入りのオレンジジュースを子供に飲ませて連れ去った、などと口に出して説明するのは苦痛だし、無責任な噂が団地の中を流れることにもなるだろう。耕介も裕太も少なからずいやな思いをするに違いない。電話で耕介がやたらと警察のことを気にしていた理由がわかった。
支払をすませて、自宅に電話を入れてみる。夫は帰宅していた。
『おい、今どこにいるんだ? 亜里は?』
苛立ちと不安とが綯い交ぜになった声に、亮子は意地の悪い声で答える。
「山下さんのところに行ってきたの」
「ヤマシタ?」
「あなたのほうがよく知ってるでしょう」
『誰だ、それ』
心底不思議そうな口調だった。
「だから山下さんっていう女の人。もういいわ。車で迎えに来てくれる? いつもの小児科で待ってるから。それと亜里の着替えを一組持ってきて。下着も靴下も全部」
あの女が買った服など一分だって着せておきたくない。車の中で着替えさせよう。
『おい、だから山下って誰なんだよ』
「昔、上北沢に住んでた人よ。早く来てね」
夫の答えを待たずに電話を切った。帰ったら修羅場かも、とため息をつく。待合室にはもう誰もいない。早く裕太を迎えに行かなければ、と思う。
「耕介、ちょっと手伝って。おんぶするから」
ぐったりと眠っている子供は重い。抱きかかえる腕がだるくてたまらなかったのだ。耕介が、軽々と亜里を抱えて亮子の背中に乗せる。ついさっき、あの女から引き離されたときの力を思い出す。
唐突に気づく。プールから夫に電話をしたとき、確かに自分は「山下」という名前を出した。なのに、夫は全く動揺していなかった。今もそうだ。あれほど完璧にしらを切り通すことなど可能だろうか。それとも……。
「おとうさん、山下って誰だって言ったわ」
かすかに語尾が震えた。あの女は、夫の気を引こうとして耕介の誘拐を企てた。亜里を連れ去ったのも、誰かの気を引くためではないのか。だとしたら?
「上北沢に住んでたころは、吉崎っていう苗字だったから、おとうさんにはわからなかったのかもしれないな」
夫は四年前にあの女と切れている。よりは戻していない。それは確かだと思う。あの女にとって今の夫は、手間暇かけてまで気を引くほどの相手だろうか。
「離婚して旧姓に戻ってから、こっちに引っ越してきたって言ってたし」
「言ってたって……誰が?」
耕介の口許に薄く笑いが浮かぶ。鳥肌が立ちそうなほど、夫に似ていた。表情だけではない。話し声もそうだ。電話やインターフォンを通すと、きっと夫にそっくりになる。あの女が二人を重ね合わせても不思議はないほど。
マンションの階段を昇った、あの足取り。耕介は、インターフォンにカメラが内蔵されていることまで知っていた。団地からマンションまで約四十分。親にとっては目の届かない場所であっても、十二歳の少年にとって決して遠い距離ではない……。
「外、出とかないと。おとうさんがそろそろ来るから」
顔を背けるようにして、亮子は窓の外に目をやった。すでに辺りは暗い。窓ガラスに映る自分の姿はひどく老け込んでいた。
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表題作『インターフォン』はいかがでしたか? 明日は同じく幻冬舎文庫『インターフォン』より、短編『妹』の冒頭をお届けします。
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