先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『明日の話はしない』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。別々の時代、場所で生きた3人が自らに課した共通のルールが「明日の話はしない」だった──。本作は短編として描かれるそれぞれのストーリーが運命的に交錯する本格ミステリです。
今回は第一話の一部をご紹介します。(#1から読む)
* * *
わたしとファドは三時五分前になると、また病室を抜け出した。トウダイさんが「三時ちょうどに来て」って言っていたから。
でも、わたしたちはナースステーションには行かずに、小児病棟の入り口に向かった。手を消毒したり、専用のスリッパに履き替えたりしなきゃならないから、小児病棟の入り口はひとつしかない。
それに、ここなら下駄箱とか消毒薬のスプレーが並べてある棚が邪魔になって、ナースステーションからは見えない。ちょっとくらい長くおしゃべりをしても、注意されずにすむ。看護婦さんがすぐそばを通ればダメだけど。
ドアが開いたのは、三時一分前だった。なるほど、靴を脱いでスリッパを履いて消毒薬を手にかけて……ナースステーションに着くまでにちょうど一分くらいかかる。
ドアを開けるなり、わたしたちがいたもんだから、びっくりしたみたいで、その子は目を真ん丸にした。
「オレのこと、覚えてる?」
Vサインなんてしていたけれど、ファドの目はちょっぴり不安そうだった。おまえなんか知らないって言われるんじゃないかと心配だったんだろう。
「覚えてる。ゼルダ、クリアした?」
とっくの昔、と答えるファドはすごくうれしそうだった。
「さっき、ナースステーションにいたろ? オレたち、すぐ横を通ったんだ」
「そうなんだ? わかんなかった」
「また来るって言ってるの聞こえたから、ここで待ってた」
でも、そこでぴたりと会話が止まってしまった。何を話していいのか、わからないんだろう。だいたい、二人ともお互いの名前を覚えているのかどうかさえ、怪しい。
それでも、ファドががんばって口を開きかけたときだった。
ピピッピピッと目覚まし時計みたいな音が鳴った。男の子があわてたように、ポケットから何かを取り出した。やかましい音で鳴ってるのは、青くて平べったくて丸いもの。
「なあに、それ」
「ポケベル」
音はすぐに止まった。小さな白いボタンを押すと、止まる仕組みになっているらしい。
「ごめん。お母さんが早く来いって」
男の子はスリッパを引っかけて、走っていってしまった。でも、わたしもファドもここを動くつもりはなかった。だって、トウダイさんは忙しい。ゆっくりおしゃべりしてる時間なんてないから、あの子はすぐに戻ってくるはずだ。
三時になったとたん、病棟の入り口はにぎやかになった。面会のお母さんたちがやって来たから。わたしとファドは少しドアから離れて、お母さんたちの邪魔にならないようにした。
「マミのお母さん、今日は何時?」
「たぶん三時半ごろ」
面会に来るお母さんたちは、毎回毎回、守衛室のノートに来院時刻と名前と電話番号を書かなければならなかった。三時ちょうどに来ると、守衛室の前に行列ができていて、けっこう待たされるらしい。
入院したばかりのころは、お母さんは行列の最初のほうに並んで、ぴったり三時に病棟に来てくれたけど、最近は行列しなくてすむ時間に来るようになった。それが三時半。まあ、三十分くらい遅いからって、別にわたしは文句を言ったりしない。そんなの、小さい子のやることだ。
それに、ファドのお母さんなんて毎日来られるわけじゃないし、来ても遅い時間だったから、うちのお母さんばっかり長く病室にいるのも、なんだかファドに悪い。
面会のお母さんたちがスリッパをぱたぱた言わせながらいなくなってしまうと、またポケベルの話に戻った。
「ポケベル持ってるヤツ、クラスにいたな。女子だったから、見せてもらわなかったけど」
「うちのクラスは持ってる子、いなかったよ。テレビで見たぐらいかな」
わたしが見たのは、高校生のおねえさんたちがポケベルを使ってメッセージを送り合うっていう番組だった。そのメッセージがクイズの答えかヒントになってたような気がするけど、よく覚えていない。
「でも、ポケベルって、文字が出るんだと思ってた。あの子のは音だけだったよね」
「ポケベルっていっても、いろいろあるんじゃないかな。オレ、近くで見るの初めてだから、よくわかんないけど」
「あの子が戻ってきたら、訊いてみようよ。てか、あの子の名前、なんていうの?」
「忘れた」
「じゃあ、ボーちゃんでいいよね。なんか似てたし」
「ボーちゃんって、クレヨンしんちゃんの? 似てねえって」
「似てるよ」
わたしたちの「似てる」「似てない」の言い合いが終わらないうちに、あの男の子は戻ってきた。そして、ファドとの勝負はわたしの勝ちだった。「ボーちゃん」って言ったとたん、あの子はビミョーにイヤな顔をしたのだ。つまり、わたし以外からも言われたことがあるってこと。それで、決定だった。
その後、わたしとファドはポケベルをじっくり見せてもらって、使い方を教えてもらった。テレビで見たのと同じように、ボーちゃんのポケベルも、ちゃんと文字が出た。
でも、ボーちゃんのお母さん、トウダイさんは忙しいから、メッセージを送ってくることはほとんどないらしい。さっきみたいに、約束を忘れないように、その時間になったら鳴らして合図する程度で。
「あとは、『キョウ バアチャンチ』って送ってくるくらいかな」
「ばあちゃんちって?」
「お母さんが帰ってこれないときは、自分ちじゃなくて、ばあちゃんちに帰るんだ」
夜中に気持ちが悪くなってナースコールを押せば、すぐに誰かが来てくれる。トウダイさんが来てくれたこともある。トウダイさんがここにいるときは、ボーちゃんのそばにはお母さんがいない……。
わたしやファドが夜はお母さんといっしょにいられないように、ボーちゃんもお母さんといっしょじゃない。そう思うと、ボーちゃんは病気じゃなくても、わたしたちの仲間って気がした。
「ポケベルにメッセージ送るのって、どうやったらいいの?」
鳴らすだけなら、ポケベルの番号に電話をかければいい。それは知っている。でも、文字を送るにはどうやればいいんだろう。そのやり方が知りたかった。公衆電話はナースステーションの隣にしかないけど、短いメッセージなら、看護婦さんたちにバレずに送れるかもしれない。
「留守番電話みたいに、しゃべったらそれが文字になるの?」
ボーちゃんは首を左右に振って、ポケットからお財布を出した。お財布にはさんであったのは、ふたつに折りたたんだカード。表紙の部分には『フリーワード表』と印刷されている。その下にボールペンで書かれた04で始まる数字は、ボーちゃんのポケベルの番号だろう。
わたしとファドは頭をくっつけるようにして、カードをのぞき込んだ。ふたつ折りの左側にはカタカナと数字の表が、右側にはアルファベットと数字の表が印刷されている。
「文字によって番号が決まってるから、この表を見ながら、その番号を押していくんだ」
1と1を押せば“あ”、2と1を押せば“か”になる、とボーちゃんは説明してくれた。表を見れば簡単だけど、これを全部覚えるのはすごく大変そうだ。
「ダメ。ぜんっぜん覚えらんない」
“あ”は1と1、“い”は1と2、“う”は1と3……と声に出して繰り返してみたけれど、わたしの頭では覚えられそうになかった。がっかりだ。ボーちゃんにメッセージを送ってみたかったのに。
「あげるよ、これ」
ふたつ折りのカードが目の前に差し出される。
「いいの?」
「全部覚えてるから、もういらない」
わたしとファドは驚いて顔を見合わせる。だって、わたしにはとても覚えられないと思ったばかりだったから。全部覚えてるなんて、すごいと思う。やっぱりトウダイさんの子供だから、頭がいいんだろう。
「ここにポケベルの番号書いてあるから、やり方覚えたら、メッセージ送ってよ」
「うん。わかった。がんばって送ってみる」
この表を見ながらなら、きっとわたしにもメッセージが送れるだろう。ボーちゃんが帰ったら、さっそくやってみよう。ボーちゃんが家に着くのと、わたしのメッセージが着くのとどっちが早いかな、なんて思うとわくわくした。
「ポケベル、わたしも欲しいな」
わたしもポケベルを持っていたら、送るだけじゃなくて、送ってもらうこともできる。テレビで高校生のおねえさんたちがやってたみたいに、メッセージを送りっこできる。ベル友……だっけ、あれって。
「ポケベルって高いの?」
さあ、とボーちゃんは首をかしげる。
「わかんない。お母さんに訊いてみようか」
「いいよ、訊かなくても。なんでそんなこと知りたいのって、逆に質問されちゃうよ」
勉強以外のことを大人に訊くときには気をつけなきゃいけない。大人は必ず、「どうして知りたいの」って訊き返してくる。しかも、何か理由を言わなきゃいけなくなる。理由なんかないよ、ただ知りたいだけだよって言ったって、信じてなんかくれない。
わたしたちがボーちゃんのポケベルにメッセージを送ろうとしていること、できればベル友ってやつになりたいと思ってることは、トウダイさんには秘密にしといたほうがいいような気がした。言えば、めんどうなことになる。たぶん。
ポケベルの値段の話はそれで終わりになり、ファドと少しゲームの話をして、ボーちゃんは帰っていった。
(#5へ続く)
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