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どこでもいいからどこかへ行きたい

2024.12.31 公開 ポスト

京都には“世界の全て”があったpha

家から出たらそれは旅――。ふらふらと移動することをすすめる、phaさん著『どこでもいいからどこかへ行きたい』は、旅をぐっと身近に感じることができる一冊。読むことで旅する気持ちを味わうもよし、読みながら旅するもよし。年末年始のお供にどうぞ。

京都は移動祝祭日

京都に住んでいたときは終電なんて気にしたことがなかった。

自転車や徒歩でほとんどの場所に移動できたからだ。

今は東京に住んでいるのだけど、都市の規模や構造としては京都くらいがちょうどよかったな、ということをよく思う。

京都はそれなりに人口の多い都会なので、必要な店などは大体なんでも揃っていて不便はない。そのわりには規模が大きすぎず、土地が平へい坦たんで道路が碁盤の目状に交差していてわかりやすくて、自転車で移動するのがとても便利だった。

東京はなんでもあって面白いのだけど、ちょっと大きすぎるし人が多すぎる。

首都圏の交通網は発達していて電車でどこにでも行けて便利だ。でも、結局どこに行くにも電車を乗り継いで30分から1時間くらいかかってしまって、移動が結構面倒臭い。

人が多いので電車も混んでいてあまり乗りたくないし、そうすると結局自分の家の近く以外にあまり行かなくなってしまう。同じ東京に住んでいる友達でも沿線が違うとおっくうになってあまり会わなくなる。自転車で気軽に友達に会いに行けた京都が懐かしい。

あと、東京は道が複雑で坂や車の数も多いので、自転車で動くにはあまり向いていないように思う。

そう考えると、京都より東京のほうが大きい都市だけど、京都にいた頃のほうが都市全体を広々と活用できていた気がする。京都が一つの都市だとすると、東京はたくさんの都市の集合体という感じがある。

京都のよいところは、街がコンパクトにまとまっていて動きやすいだけでなく、文化的にとても充実しているところだ。

観光的によくイメージされるのは「神社仏閣」「歴史遺産」「伝統工芸」だが、現代的な美術展やライブなども開催される。買い物をする商業施設は一通り揃っているし、良いカフェやレストランもたくさんある。

京都という街は、現代的な都市としての面と、千年以上の歴史や伝統の蓄積と、数年ごとに入れ替わる大学生たちと、世界中からやってくる旅行者や移住者などといった、さまざまな速度の時間の流れや人がミックスされ渾こん然ぜん一体となっていて、それがすごく面白い。

そして、それらの全てが徒歩や自転車で気軽にアクセスできる距離にあるということが何より重要だ。

世の中には「わざわざ遠くまで出かけて行くほどじゃないけど、近くでやってるならちょっと寄ってみようか」と思うものがたくさんある。

僕は京都で過ごした学生時代に、周辺にあるさまざまな文化になんとなく触れて「へー、こんなものもあるのか、悪くないな」と気づくことが多かった。

学生時代は、左京区南部の東山丸太町のあたりにある学生寮に住んでいた。

ある日いつものように寮で同世代の数人とだらだら過ごしていると、遊び慣れててモテそうな感じの先輩に声をかけられた。

「自分ら、暇やったらクラブに行ってみいひん?」

その頃の僕にとってクラブというものは、ゴツい人がいっぱいいるとか、チャラい人がいっぱいいるとかいうイメージで、怖くて近寄りにくい場所だった。そもそもダンスなんてできないしやったことないし、クラブに行っても何をすればいいかわからない。

なので「えー……」と渋ったのだけど、先輩に「まあまあまあ、奢るし、社会勉強やと思って」とか言われて、徒歩3分くらいの近所にあるクラブ「メトロ」に連れて行ってもらったのだった。

初めて行ったクラブは、薄暗くて大音量で音楽が流れていたけれど、思ったほど怖くはなくて、みんな踊ったり踊らなかったりお酒を飲んだりまったりしていたりと、わりと適当に過ごしていてもいい場所だった。

踊るのって、ちゃんと上手にダンスをできないといけないのかと思っていたけれど、別に音楽に合わせて適当に体を揺らしているだけでいいようだった。

まあそのときはやっぱり人前で体を動かすのが恥ずかしくて、連れてこられた僕ら男3人は透明のプラスチックのコップに入ったお酒を片手に持って壁際でぼーっと突っ立ったまま、先輩がフロアの中央で女の子の視線を集めながら派手に踊っているのを眺めていた記憶があるのだけど。

そのときはクラブが楽しいのかどうかもよくわからなかったけど、最初にあった怖いイメージはなくなって、結局そのあとも何回かメトロには遊びに行った。

今思うとそんなにクラブが好きなわけでもなかったんだけど、それでも何回か行ったのは、「そういう場所に行き慣れてるとカッコいいかも」という若者特有の背伸びと、あとは、そんなに気合いを入れなくてもなんとなくふらっと行けて、飽きたらすぐに帰れるというくらい近い場所にあったからだ。

メトロは結構有名なミュージシャンとかも来たりする場所なのだけど、立地としては駅の側ではあるものの、他に繁華街的なものは何もない住宅地の中にある。

京都では平凡な街なかのひょんなところに、東京だったら渋谷とか下北沢とかに行かなければないような、クオリティの高いカフェや本屋やクラブなどの文化的な店があるということが結構あったように思う。

そんな風に京都では、「それほど興味があったわけじゃないけど近くだったから行ってみた」というくらいの温度でいろんな文化との出合いがあった。

演劇なども別にそんなに好きでもないのだけど、家の近くで数百円や千円くらいで見られる機会が多かったのでときどき見た。

お寺なども別に興味がなかったけど、無料で入れるのでふらっと立ち寄ってみて、「意外とカッコイイやん」とか思ったりした。

他にも、

散歩のついでになんとなく美術館に寄ってみたり、

数百円の拝観料を払って日本庭園の中を歩いてみたり、

琵琶湖疏水に沿って歩きながら桜や紅葉を見たり、

東大路通りで山伏の集団を目撃したり、

深夜のからふね屋珈琲で試験勉強をしたり、

吉田寮食堂で友達が出ている芝居を見たり、

西部講堂でROVOのライブを見たり、

百万遍の安い飲み屋で抽象的な議論をしたり、

鴨川で鴨や鷺や鳶やときには鹿を見たり、

高野川と賀茂川が合流する出町柳のデルタでピザを食べながらビールを飲んだり、

賀茂川の河原でジャンベを叩いて遊んだり、

糺の森の古本市をぶらぶら見て回ったり、

京都御所の玉砂利をじゃりじゃり踏みながら「今年の暑さは異常だ」とか思ったり、

少し前に火事で燃えてしまったほんやら洞の2階でコーヒーを飲みながら何時間も本を読んだり、

町家をリノベーションしたお洒落なカフェで場違い感を覚えたり、

河原町三条の路上で限りなくゆっくりと動く舞踏家の踊りを見たり、

木屋町の狭くて薄暗いバーでラム酒を飲んだり、

京阪電車に乗りながらくるりを聴いたり、

一乗寺の恵文社でいろんな本の背表紙を眺めるだけ眺めて何も買わなかったり、

他の店より特別にスープが濃いという天下一品の総本店に行ってみたり、

女の子と一緒に銀閣寺の近くを歩いていたら観光客と間違えられて人力車の俥夫に声をかけられたり、

大文字山に登って、「大」の字のところから京都盆地を見下ろして、「なんて小さな街なんだ」と思ってみたり、

そうしたものの全てが、徒歩や自転車で行ける範囲にあった。


それはとても豊かな日々で、そんな日々が僕の中にたくさんの「文化的ひきだし」を作ってくれたと思う。

もしきみが幸運にも

青年時代にパリに住んだとすれば

きみが残りの人生をどこで過そうとも

パリはきみについてまわる

なぜならパリは

移動祝祭日だからだ

──アーネスト・ヘミングウェイ著、福田陸太郎訳『移動祝祭日』(岩波書店)より

ヘミングウェイがこんなことを書いていたらしい。

この感覚はすごくよくわかる。僕にとっては京都がそういう場所だったからだ。

多分この先僕は世界のどこに住んでも、その場所を京都と比べたり、その場所に京都と通じるものを見出したりしながら、ずっと暮らしていくのだろうと思う。

 

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関連書籍

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』

家にいるのが嫌になったら、突発的に旅に出る。カプセルホテル、サウナ、ネットカフェ、泊まる場所はどこでもいい。時間のかかる高速バスと鈍行列車が好きだ。名物は食べない。景色も見ない。でも、場所が変われば、考え方が変わる。気持ちが変わる。大事なのは、日常から距離をとること。生き方をラクにする、ふらふらと移動することのススメ。

pha『できないことは、がんばらない』

他の人はできるのに、どうして自分だけできないことが多いのだろう? 「会話がわからない」「服がわからない」「居酒屋が怖い」「つい人に合わせてしまう」「何も決められない」「今についていけない」――。でも、この「できなさ」が、自分らしさを作っている。小さな傷の集大成こそ人生だ。不器用な自分を愛し、できないままで生きていこう。

pha『パーティーが終わって、中年が始まる』

定職に就かず、家族を持たず、 不完全なまま逃げ切りたい―― 元「日本一有名なニート」がまさかの中年クライシス!? 赤裸々に綴る衰退のスケッチ 「全てのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代の頃、怖いものは何もなかった。 何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。 この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。 喪失感さえ、娯楽のひとつとしか思っていなかった。」――本文より 若さの魔法がとけて、一回きりの人生の本番と向き合う日々を綴る。

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どこでもいいからどこかへ行きたい

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pha

1978年生まれ。大阪府出身。京都大学卒業後、就職したものの働きたくなくて社内ニートになる。2007年に退職して上京。定職につかず「ニート」を名乗りつつ、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作る。2019年にシェアハウスを解散して、一人暮らしに。著書は『持たない幸福論』『がんばらない練習』『どこでもいいからどこかへ行きたい』(いずれも幻冬舎)、『しないことリスト』(大和書房)、『人生の土台となる読書 』(ダイヤモンド社)など多数。現在は、文筆活動を行いながら、東京・高円寺の書店、蟹ブックスでスタッフとして勤務している。Xアカウント:@pha

 

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