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パーティーが終わって、中年が始まる

2025.01.03 公開 ポスト

「未完成でも、断片的でも、途中でも、やめていいんだよ」pha

昨年話題になったphaさん『パーティーが終わって、中年が始まる』で多くの方が「好きな文章」として感想を述べてらしたエッセイがあります。「幽霊の音楽」、新年に読みたい美しい文章です。

幽霊の音楽

水上音楽堂、というからにはてっきり池の真ん中にあるか、そうでなくてもせめて池のそばにあるのだと思っていたのだけど、実際の水上音楽堂は上野公園の中心に広がる不忍池から少し離れた場所にあったので、最初に来たときは若干期待外れに思ったものだった。

水の上にあるわけではないのになぜ水上音楽堂というのだろう。水上音楽堂のステージのすぐ下には、水の張られていない池のような半円形の謎の空間があるのだけど、昔はあそこに水が張られていたのだろうか。しかしあそこが池だったとしてもそれもなんだか中途半端で不自然な気がする。

開演の一時間前に入るとまだ人はまばらだったので、前のほうに席を取った。ステージにはすでに楽器を持った人たちが十数人立っていて、リハーサルをやっている。

季節は五月。緑が瑞々しい。この会場は外と直接つながっていて風が吹いてくるので、ピクニックのような気持ちになる。この時期の屋外は最高だ。ちゃんと飲み物やお菓子も買ってきたし、リハーサルを見ながら開演までの時間をのんびり過ごそう。

この音楽を聴かなければまともな人生を歩んでいたかもしれない、とまで言うと言い過ぎだけど、こういう音楽をこんなにも好きになるということは、自分はメジャーなものには惹ひかれないマイナーな人間としてずっと生きていくのだろう、という自覚を決定的にした、というくらいのことは言えるかもしれない。

マヘル・シャラル・ハシュ・バズ。

旧約聖書において、エホバの指示でイザヤの二番目の息子に付けられた名前で、「速やかな略奪」といった感じの意味らしい。

その覚えにくい長い名前のバンドのCDを最初に貸してくれたのは大学時代のどの友達だったかもう覚えていない。

二十歳くらいのあの頃、周りのみんなが同じ音楽を聴いていた気がするけれど、それはたまたま趣味の近い人が周りにいた、というよりも、まだみんな自分の趣味が定まっていない頃に、共に長い時間をだらだらと過ごしながら、一緒に趣味嗜好を形作っていった仲間たち、という感覚がある。それは若者であるときにしか得られない関係性だったと思う。

マヘルの音楽は、今までに全く聴いたことがないタイプのものだった。ひとことで言うと、とにかくへろへろしていた。こんなにへろへろの音楽が世の中にあるんだ、そして、こんなにへろへろなものが、なんでこんなにいいんだろう、と思った。

マヘルというバンドは八〇年代頃から活動しているらしいのだけど、中心人物の工藤冬里さん以外のメンバーは流動的で、ライブのたびに入れ替わっている。そして人数が多い。ライブをするときは十数人くらいがステージにいる(小さいライブハウスなどでは少人数の場合もある)。ギターやドラムといったよく見る楽器もいるけれど、多いのはトランペットなどの管楽器だ。ベースの代わりにバスーンの柔らかい音色が低音域を支えている。ボーカルが入っている曲もあるけど、ない曲のほうが多い。

マヘルの音楽は、楽器の奏でるメロディーも、ボーカルも、なんだかへろへろで、どこかずれている。テンポも音程もつかみどころがない。曲も、断片的というか、始まったと思ったら、数十秒くらいですぐに終わってしまったりする。

不安定で、未完成。それが何かになってしまいそうになった瞬間、すぐにそこから逃げ出してしまって、何かの形を成してしまうことを永遠に拒否しているような感じ。だけどその途切れ途切れの未完成なものが、とても切なくて、美しい。

マヘルの音楽は、ちゃんとしたもの、とか、完成したもの、から、全力で遠ざかっているように聞こえた。現世的なものから逃げ続けたところに存在する、幽霊のような音楽。そんなところに僕は惹きつけられたのだった。

マヘルを聴きながら、若者だった頃の僕はこんなことを考えていた。

この音楽はとても素晴らしいけれど、決して世の中でヒットするような音楽ではない、ということもわかる。

ほとんどの人はこれを聴いても、なんだか変な音楽、と思うだけなんだろう。世の中の多くの人は、きちんとわかりやすい歌詞があって、音程やリズムがずれていなくて、AメロとBメロとサビがちゃんと揃そろっている音楽しか聴かないのだ。

自分の感覚と世間の評価とのあいだに大きな隔たりがあるのを感じた。マヘルの音楽を聴くたびに「素晴らしいものが世間でも売れるとは限らない」ということを身にしみて実感したし、「こんなに売れなそうなものを何よりも素晴らしいと思ってしまう自分は、一生マイナーな生き方をするのかもしれない」ということを予感したのだ。

そして実際に、二十年前想像していたようなよくわからない人生を自分は今生きているし、今でもマヘルを聴き続けている。

また、集団を作るときのあり方の理想のひとつとして、マヘルというバンドを見ていたというのもあった。

僕は大学時代のサークルやシェアハウスなどで、集団のリーダー的な役割を務めることがわりと多かったのだけど、強いリーダーシップで自分のやり方にみんなを従わせるようなリーダーにはなりたくない、とずっと思っていた。僕自身にそんなに強い意見はないし、人を従わせるのも好きじゃない。人が人に従うとか、上下関係というもの自体に抵抗がある。なんとなくゆるく人が集まっているくらいがいい。

しかし、強いリーダーは好きじゃないけれど、かといって、みんなが平等に同じくらいの発言権を持つ民主的な集まりも、それはそれで面白くない。何かを作るときに、全員が平等に意見を出すと、絶対にコンセプトがぶれて中途半端なものになる。面白い作品を作ったり、面白い空間を設計するには、センスと実行力のあるリーダーが必要なのだ。

強権的なリーダーは嫌だという気持ちと、完成度の高いものを作るにはリーダーが必要だという事実。いつもその二つのあいだで迷っていた。

音楽のバンドにおいて、リーダーシップのあり方はさまざまだ。全ての曲をリーダーが一人で完璧に作ってそれを他のメンバーに演奏してもらう、というワンマンバンドもあるし、そこまで一極集中な感じではなく、全員で相談しながら曲を作り上げていくバンドもある。

その中でもマヘルの構成はユニークだ。ライブのときはいつも「参加者募集」という告知がある。参加したい人は誰でも、リハーサルに行くと楽譜を渡されて、演奏に参加することができるらしい。だからマヘルのライブはいつも、メンバーが不定だ。

マヘルの音楽がへろへろでずれているのは、意図的にそうやっているというのもあるのだけど、それだけではなく、あえて楽器が上手くない初心者的な人を演奏に加えたりもしているらしい。

そんなふうに誰でも参加できるという民主的な感じではあるのだけど、しかしできあがった楽曲には、リーダーである工藤冬里さんの個性や音楽性が強烈に感じられる。

みんなそれほど無理せずゆるくやっている感じで、ミスとかもあるけれど、そうした不完全さそのものがコンセプトになっていて、不安定な音の存在自体が音楽性に組み込まれている。不完全なのに、その不完全さが完璧に配置されているように聞こえてくるのだ。

マヘルの音楽には、会場の外から犬の吠える声が聞こえてきても、お客さんがコップを落として割ったりしても、機材の不調で演奏が中断しても、何が起こってもそれが音楽の一部であるような、底の知れない包括性がある。

そんな懐の深さに僕は憧れたのだ。何か集団を作るときは、こんなふうにしたい。来る者は拒まず、去る者は追わずで、誰でも気軽に参加できて、参加者に何かを強制したり無理させたりすることはなくて、みんながゆるく好きなようにやっているのだけど、それでも全体的にはなぜか統一感があって、とても面白い空間が作り出されている、というような。

シェアハウスをやっているときはずっとそんなことを考えながら運営をしていた。しかし、実際の集団作りにおいてはなかなか理想通りには行かず、みんながやりたいように振る舞っていると全体の良さが損なわれてしまうことも多くて、しかたなく何かを禁止したり、拒絶したりすることがしばしばあった。

だけど、いろいろトラブルなどが起きつつも、それでもできるだけ何も強制せず、みんなが自由にゆるくやっている感じにしたい、という理想を持ち続けられたのは、マヘル・シャラル・ハシュ・バズというバンドが達成したものを知っていたから、というのはあったと思う。

リハーサルが結構長いな、と思って物販をのんびり見ていたら、まだ開始時間にはなっていないし、何のアナウンスもなかったけれど、演奏が少しだけちゃんとした感じになっていることに気がついた。それでもこのバンドを知らない人が見たら「練習?」と思いそうなゆるい演奏ではあるけれど、多分これは本番が始まっている。慌てて客席に戻った。

MCなどは一切なく、曲は唐突に始まり、まだ途中のようなところで唐突に終わる。それが何度も繰り返される。美しい曲の断片が空中にいくつも放り出されては、きちんと片付けられないまま、次の曲へと移っていく。

曲なんてちゃんと始まらなくていいし、ちゃんと終わらなくていい。この世界は本当は断片的で非合理的なものの集合なのに、人間はいつもわかりやすい物語や起承転結を求めすぎてしまう。ランダムパターンの中に顔を見つけようとしてしまう。

僕らの普段の生活では、仕事は完成させないといけないし、情報はきちんと伝わるように伝えないといけない。それは確かに社会を成り立たせるためには必要なことなんだけど、ちゃんとやることにみんな疲れているんじゃないだろうか。だから、マヘルの音楽のように未完成な断片がそのまま投げ出されているものを見ると癒やされるのだ。

幽霊の音楽。僕もそういう仕事がしたいかもしれない。未完成でも断片的でも、途中でやめてしまってもいいんだよ、というのをみんなに伝えるような仕事を、この世から半分足を踏み外してしまったような顔色をして。

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パーティーが終わって、中年が始まる

元「日本一有名なニート」phaさんによるエッセイ『パーティーが終わって、中年が始まる』について

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pha

1978年生まれ。大阪府出身。京都大学卒業後、就職したものの働きたくなくて社内ニートになる。2007年に退職して上京。定職につかず「ニート」を名乗りつつ、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作る。2019年にシェアハウスを解散して、一人暮らしに。著書は『持たない幸福論』『がんばらない練習』『どこでもいいからどこかへ行きたい』(いずれも幻冬舎)、『しないことリスト』(大和書房)、『人生の土台となる読書 』(ダイヤモンド社)など多数。現在は、文筆活動を行いながら、東京・高円寺の書店、蟹ブックスでスタッフとして勤務している。Xアカウント:@pha

 

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