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愛の病

2024.12.24 公開 ポスト

最も無駄な時間狗飼恭子

どうしてだろう。

歩くとすぐに靴ひもがほどける。

だいたい三十分歩いたら七回は靴ひもを結び直す。何があっても絶対に声を荒げないものすごく温和な人に「二重に結んだらいいんじゃないですか」と言わせてしまったことがあるくらい、わたしの靴ひもはすぐにほどける。他の人が人生かけて靴ひもを結ぶ回数をすでに越しているのではないだろうか。

 

しかもほどけるのはだいたい駅前などの人ごみである。

靴ひもがほどけたらどうすればいいか。わたしはすでに高レベル靴ひも結び人であるので慌てることはない。

まずは靴ひもを踏まぬよう、爪先を浮かしかかとで歩く。

次に周囲を見回し、靴ひもを結べる場所を探す。

あまり人が通らない、できたら足を載せられるちょっとした台があると好ましい。一番いいのはベンチのような座る場所だけれど、東京にはほぼないので諦める。

自動販売機の脇とか電柱のそばとかは、だいたい多くの人が勝手に避けてくれる場所なので靴ひも結びに適している。歩く人の前を横切る形になるのでぶつからないよう、靴ひもを踏まないよう他者にも踏ませないよう気を付けながらその場所へ向かう。到達しても気を緩めない。そういった隅っこの場所は地面が汚れていることが多いのでそれも視認する。

靴ひもを結ぶ際はしゃがんだりかがんだりすることになるので歩く人の視界から突然消えてしまうことになる。携帯を見ながら歩く人に蹴られたり周囲の人を驚かしたりしないよう、なるべく大袈裟にしゃがみ込む。そして結ぶ動作は素早く行う。結び終えたら立ち上がり、何事もなかった顔で人ごみに紛れる。

以上である。

靴ひものない靴を履けばいい。それは分かっている。

でも履く。履きたいから。靴ひもを結びなおさなければならない面倒くささと他者に迷惑をかけるかもしれないことを理解したうえで、靴ひものある靴を履く。

昔、わたしが書いた「東京中の人間のすり減った靴底はどこにいくのか」というような文章にえらく共感してくれた人がいた。彼は「僕は靴ひもを結ぶ時間が無駄に思えて耐えられない」と言っていた。そのころわたしは夏でもエンジニアブーツしか履かないという謎のルールを自分に課していたので、彼の言葉を受けとめず「へえ」と流した。エンジニアブーツには靴ひもはないから。

彼はそのあと心を壊し、遠くへ引っ越してしまい会えなくなった。今は回復したと聞いたけれど、元気にしているだろうか。

靴ひもを結ぶ時間は無駄だ。

人生で最も無駄な時間のひとつかもしれない。

でも靴ひもを結ぶ無駄を許容することができる日々はきっと、贅沢なのだと思う。

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愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。

 

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狗飼恭子

1974年埼玉県生まれ。92年に第一回TOKYO FM「LOVE STATION」ショート・ストーリー・グランプリにて佳作受賞。高校在学中より雑誌等に作品を発表。95年に小説第一作『冷蔵庫を壊す』を刊行。著書に『あいたい気持ち』『一緒にいたい人』『愛のようなもの』『低温火傷(全三巻)』『好き』『愛の病』など。また映画脚本に「天国の本屋~恋火」「ストロベリーショートケイクス」「未来予想図~ア・イ・シ・テ・ルのサイン~」「スイートリトルライズ」「百瀬、こっちを向いて。」「風の電話」などがある。ドラマ脚本に「大阪環状線」「女ともだち」などがある。最新小説は『一緒に絶望いたしましょうか』。

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