眠い。いつから?
そうだなあ、一週間前からだろうか。どうも今年度最後のライブを終えたあたりから酷使しすぎていた体からスイッチをオフにせよとの命令に近い提案がなされていたようだ。
眠い。どのくらい?答えます。気を抜くと回路が切れて、そのまま砂利の上に落ちたことに気づけないほどに。つくづく体と心の関係は曖昧で、総じて「わたし」と総称して呼ぶことの不都合を思う。
12月24日、クリスマスイブのわたしは友人の家でサンタクロースをやろうと、鎌倉のパン屋パラダイスアレイに向かっていた。この時期のわたしは縁起物として十分に喜ばれるし、イブの朝は久しぶりに目覚めがよく、精神も整っていると状況を見誤ったのだ。夕暮れを車窓から後方に流し、橙色に彩られた街を網膜に映していた。駅に降りて、早めの夕食をレストランでとり、花束を見繕って、友人邸に向かう手前、不意な囁きをしてきた悪魔に細道に誘われ、わたしの上にだけ雨が降り、気づけばずぶ濡れの心で帰りの電車に乗っていた。夕暮れだった空には暗雲が立ち上り、東京についた際の駅のホームはタオルを回す系のフェス会場そのものだった。ケータイを置いて家を出たので、謝罪の連絡もできず、家の扉を開け静寂に包まれたわたしは呆然とした面持ちで自らの人間性の欠如を呪って布団をすっぽりと被った。どうして上手にできないのだろう。この夜は何か特別でなければいけないという街の演出するムードに細胞は煽られ、調子のはずれたプレッシャーとして感じていたのだろうか。落ち込んでいる訳ではなく、ただ、チューニングが合わない。
布団で作ったドームの中、眠たさと寒さで震え、そしてそれ以外何一つの感情がない。喜びも悲しみもなく暗闇の中で無と目があい続けている深夜3時、数えるだけの時に耐えられずわたしは公園にいく。突き刺すような冷たさの中アイフォンを開くと、二歳になったばかりのアレイの新星ネモンが先日の自分の弾き語りのライブのレックを聞きながら雪遊びをしている動画だった。わたしの歌を追いかけるように歌い、叫ぶところでは同じように真似して叫んでみせる。ただそこで生きているだけの姿を見て幸せだと、母親である瞳ちゃんからコメントが付いている。わたしの脇道に逸れた精神を想っての優しさとして受け取る。いつからこんな風でいられなくなったのだろう。風邪もひいていて少し喉が痛い。ため息が出たので白い煙を見送ると、月は欠けていて噛んだ爪の先のようだった。
こんな冷たい夜などただ過ぎ去れとイルミネーションが消えるのを待っている人がどこかにもいるだろう。段ボールにくるまり心臓が打つ音を数える人もいるだろう。ベンチの上で真っ赤なニットは震えながらそんな者の一人に数えられていた。
翌日、昼食を済ませ、本屋で買い物を済ませ名曲喫茶に向かう。お気に入りの席につき、深淵な空気の中、壮大に鳴らされるクラシックに誘われ、首や瞼がだんだんと重くなっていく。眠りの世界に入っていく時の感触で一番しっくりくる言い回しは「懐かしい」だ。きっと起きてきた時間と同じくらい眠りの時間を生きているから、体がスリープ状態の座りの良さも記憶しているのだと思う。案外この世界を去り、静寂に参入していく時も懐かしく思うかもしれない。どうか死後の世界は眠りと大差ないくらい穏やかなものであってほしいと聖夜に思う。
眠りの中でシャボン玉が弾けるような音が聞こえ、薄目を開ける。音楽はクロード・ドビュッシー作曲のベルガマスク組曲だった。机の上には冷めたコーヒーと月刊のパンフレットがある。パンフレットにはいつも一片の詩が掲載されている。
「影法師はどこまでもついてくる
でもついさっきまで遊んでいた子は背を向けていってしまう
まわらぬ舌で初めてあなたが「ふたり」と数えたとき
わたしはもうあなたの夢の中に立っていた」
つい先日亡くなられた谷川俊太郎さんの詩だった。わたしは、乱反射するどうにも合わないピントの一部が瞬間、重なったのを感じた。その光の手触りに一気に温度を流しこみ、実感として仕上げていく。
少しだけ人間を取り戻す。戻ってくるきっかけなんて無限にあるだろう。誰かにもらった言葉や、レジでお釣りを渡す時の手、それが夢の彼岸で拾った一片の詩であることもある。
その後、映画館で「ミュージック」を見る。第73回ベルリン国際映画祭 銀熊賞を受賞したアンゲラ・シャーネレク監督による映画だ。悲運な運命に翻弄される青年が主人公のドラマで悲しみと向き合う先に音楽があると概要にあったが、残念ながらこの映画の中にわたしが音楽と呼んでいるものはなかった。言い淀むことが複雑な世界を進行する我々の時代への切実さと捉える風潮が映画にも音楽にもあるけど、わたしはそんな不安定で掌握不能な複雑さ緊張感の中でこそ作者の提案する胆力にこそ希望を見ている。作り手が人間である以上そもそも間違いを起こす可能性は持っていて、だからこそ緊張の琴線の上で発する言葉にしろ旋律にしろ、残すことの罪がデジタルタトゥーのように半永久的に刻まれ、それゆえ緊張は高まり続けているけど、曖昧さに並走し結局何も語らぬこととほとんど同じになるのであれば、表現の持つ楔は瞬間で錆びる。そして複雑さ自体に語られるのは現実だけで十分だともわたしは思う。
トボトボ歩く。イルミーネーションは時間のせいか、早くも点灯していない。サンタは今年もやってこなかった。本当にそうだろうか。確かに軽くなっている足取りも、帰ってきた表現への怒りも、希望の感触もここにはある。それらを贈ったものが見えない何かなら、別にそれをサンタと呼んでもいい。送られてきた動画か、名曲喫茶の中で出会った詩か、別の美しさへ駆け込む映画か、何であれ、わたしの体には届けられた少しの実感がある。それならば一度だけ言いましょう。
メリークリスマス。
*マヒトゥ・ザ・ピーポー連載『眩しがりやが見た光』バックナンバー(2018年~2019年)
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避赤地
存在と不在のあいだを漂うGEZANマヒト、その思考の軌跡。
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