
日本を代表する現代美術家・会田誠による「犬」は、2012年森美術館展覧会での撤去抗議をはじめ、数々の批判に晒されてきた。裸の少女の“残虐”ともいえる絵をなぜ描いたのか――? その理由を作者自らが解説した『性と芸術』が文庫になりました。文庫版書き下ろし「僕の母親(と少し父親」」に加え、大野左紀子さん、二村ヒトシさんの解説を収録。単行本からさらに充実した内容です。冒頭の一部を抜粋してお届けします。
大学院へ
私の卒業制作『死んでも命のある薬』は、いかにも過渡的な作品になった。「なってしまった」と書いてもいいのだが、やめておこう。次回作『犬』を生むために必要だった、一つの道程だったのだろうから。
今度は絵を、しかも具象的に描いてやる──まずはそう思った。
そう、私は学部時代、絵画をほとんど描かなかった。しかしそれはさほど珍しいことではなかった。「絵画の冬の時代」の美大生として、主流派とまでは言わないものの、ある一群の一人に過ぎなかった。なんなら「当時の流行に乗っかっていた」とさえ言える。
私はその流行りものの「反抗的でシニカルな美大生」から引退することにした。そして優等生的抽象画(志向)でさえない、よりによって黴(かび)の生えた過去の遺物=具象画を描くことにした。そっちの方が一周回って反抗的に思えた。
ただし具象画の部分は面積的には小さかった。画面全体は卒業制作が規定する最大サイズのF150号であるが、スポットライトが当たった実物大の〈明治マーブルチョコレートが入った薬壜〉を油絵で写実的に描いた部分は、せいぜい葉書サイズ程度。その他の部分は完全な黒──とは言っても〈漆黒の闇〉を油絵で描いた具象ではあるのだが。その黒い画面の上に〈本物のマーブルチョコレートからシリコンで型取りした石膏を着彩したフェイク〉と、その商品パッケージである実物の筒が、打ち上げ花火の様子を表すように配置され、貼り付けられている──というものだった。
子供の頃に読んだ『死んでも命のある薬』という童話のタイトルを出発点にして、「生と死」「無と有」「虚構と現実」などについてあれこれ考えた結果の産物であった。『河口湖曼陀羅』を生んだ〈我流哲学〉の名残りはまだ色濃くあるが、絵画や物語のあからさまなフィクション性の方に歩み寄りたい気持ちも見える。「わざわざ人為的に作品などというものをこしらえる」ということ自体を主題化したつもりでもあった。いずれにせよ、次作『犬』で完全に「作りもの」の方に振りきって開き直る前に、私が必要とした一つの通過儀礼的作品であった。
この制作に対するポリシーの変化は、私生活に対するポリシーの変化も伴った。
それまで私はなんとなく「大学は中退でいいや」と思っていた。どうせ就職しない自分にとって美大の卒業証書なんて無価値と思い、4年生になっても卒業に必要な一般教養の単位を一つも取っていなかった(わりと熱心に講義は聞いたが、レポート提出などはしなかった)。自分の将来の小さなサクセスのために事前に何かをシコシコやるなんて、豚みたいで恥ずかしいと思っていた。こういう美大中退者は毎年一定数いただろう。
しかし私はしばらく腰を据えて具象画を描きたくなった──そのためには大学院に進みたくなった──そのためには卒業しなければならなかった。藝大にはこのような学生が毎年数人はいたようで、それへの対応策を用意してくれている「駆け込み寺的一般教養の先生」が何人かいた。その人たちに頭を下げて回ったお陰で、ものの1ヶ月くらいで卒業に必要な一般教養24単位をかき集めることができた(今は事情が違うだろう。呑気な時代であった)。
こうして私は豚になった。なったからには、愚鈍な職業人になる準備を始めることにした。
受ける大学院の研究室は初めから決まっていた。「油画技法材料研究室」の「佐藤一郎クラス」──そこは当時油画科で最も人気のない研究室だった。佐藤先生は当時最も若い助教授で、ならば人気がありそうなものだが、彼には「頑固」「地味」というイメージが学生たちの間に定着していたからだ。
若い頃は坂本龍一などといっしょに藝大の学生運動をやっていたという噂があった。しかしその後ドイツに留学し、初期ルネサンスから始まる厳格な古典的絵画技法に開眼、それの日本への本格移植に生涯を捧げる覚悟を決めて帰国。そこに左翼学生からのプチ転向があったのか、案外そのままなのかはよく分からない。ともあれ私が知った時には「頑迷なる古典主義者/保守主義者」という人格は完成していた。マックス・デルナー著『絵画技術体系』という世界的に権威のある分厚い技法書を独力で翻訳し、その堅っ苦しい文体が学生の間で妙に悪名が高かった。
ここでもう一人、油画科の先生の名前を挙げなければなるまい。当時2番目に若かった、やはり助教授──榎倉康二先生である。
作品素材として無加工の綿布や廃油やコンクリートを用い、美術家としては「もの派」に分類されることの多い榎倉先生は、佐藤先生とは真逆のイメージを学生に持たれていた。すなわち「自由で革新的な現代美術」。実際、インスタレーションやビデオアートなどをやりたいと思っている「絵画の冬の時代」の花形美大生をちゃんと指導できるのは、榎倉先生しかいなかった。
しかし私は生意気にも、榎倉先生──というよりは美術家・榎倉康二──に批判的だった。「この人について行ってはいけない」──それは真面目に彼の実技演習を受けたり、彼の旧作および新作の展示を見に行ったりした上での、私の結論だった。彼の芸術に対する考え方は、彼の代で終わらせるべきだと思っていた。
もっとも私の榎倉先生への反発は、あまりに多くの学生に慕われていることへの天邪鬼という面があったことは認める。現代美術系の花形学生のみならず、抽象画志向の優等生にも慕われていたので。当然大学院・榎倉研究室の競争率は高く、劣等生の私が受けても玉砕することは目に見えていた。
大学院試験の面接で私は佐藤先生に、だいたいこんなことを言った。
「自分は4年間ほとんど絵は描かず、他のことをやっていました。しかし考えがガラリと変わりました。もし大学院に入れてもらえたら、少なくとも2年間はみっちり絵を描きます」
言う時の真っ直ぐな瞳が功を奏したのか、私は無事に大学院に合格した。
この時のセリフは2つの意味で本心だった。「みっちり絵を描く」ことと「少なくとも2年間」ということだ。その後の結果を簡単に書けば、前者は嘘にはならなかった。私の大学院の2年間は、私の人生の中で最も絵画作品を量産した時期になった。しかし後者はちょっと嘘になってしまった。当初は2年間限定の実験のつもりだったのに、なんだかんだでその後も──現在に至るまで、絵画制作はメインの仕事であり続けているからだ。
あと、先ほど佐藤先生を「頑迷なる保守主義者」と書いたが、先生の名誉のために付け加えておこう。佐藤先生は明らかに危険で面倒臭い学生である私を落とさないくらいには「複雑な現代人」であった。
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続きは、『性と芸術』をご覧ください。