
なぜ日本銀行は異常な円安を止められなかったのか? その結果、日本経済と国民生活にどのような影響をもたらしたのか? 経済学者の野口悠紀雄さんが、日本経済の抱える根本的な課題に迫る幻冬舎新書『日銀の限界』より、一部を抜粋してお届けします。
この数年間の急激な円安で、日本人が貧しくなった
日本円は、この数年間で急激に価値が低下した。2021年秋頃までは1ドル=105~110円の間で推移していたのだが、2022年3月頃から急速に減価し、2022年10月には150円に近づいた。その後円高になったが、再び円安になった。
これが日本に深刻な問題をもたらしたことは間違いない。輸入物価の高騰により、国内物価が高騰した。日本人の購買力が著しく減少し、海外の高価なものを買えなくなった。そして、第2章で見たように、外国からの労働者が日本に来ない、日本人が留学できない、などの問題が発生した。日本は急速に貧しくなったのだ。
一体なぜ、このようなことが起きたのか? その原因は何か? ここから抜け出すにはどうすればよいのか?
日本の自然利子率は、低成長のため低下した
日本が金利を上げれば問題が解決するということには直ちにならない理由として、本章の1で述べたように、「金利を引き上げると、さまざまな問題が発生する」ということがある。
この問題を考えるためには、「自然利子率」という概念が手がかりになる。「自然利子率」とは、経済の構造によって決まる利子率である。実際の利子率を金融政策によってこれより低くすれば景気刺激的になり、高くすれば景気抑制的になる(自然利子率の名目値は、「中立金利」と呼ばれる)。
自然利子率は理論上の概念であって、実際にデータとして観測することはできない。
ただし、推計はできる。一定の条件のもとで、自然利子率は経済の実質潜在成長率に等しいことが、1960年代にエドムンド・フェルプスの経済成長理論によって証明されているからだ。
この理論はつぎのように考えれば、直感的に了解できるだろう。
物価上昇率がゼロであるような世界を考える。そして、1単位の投資をすれば、1年後に1.1単位が回収できるとする。つまり、1年間の収益率が10%だとする(これが自然利子率だ)。
この場合、もし金利が10%より低ければ、借入れ資金で投資することによって利益を得られる。逆に、金利が10%より高ければ、投資は利益をもたらさないので、投資が抑制される。
日本の自然利子率は、1990年代以降、低下したと考えられる。アメリカが高成長を続けるのに対して、日本が低成長に陥っていることが、それを示している。日本の経済構造が劣化したために、生産性が低下し、潜在成長率が低下したのだ。
したがって、自然利子率の段階において、日米間で差が開いている。この差は、金融政策ではコントロールできないものだ。
そのため、日本の金利(利子率)はアメリカの金利(利子率)より低くなり、したがって円が安くなるというメカニズムが働くことになる。
もし、長期金利を無理矢理アメリカと同じ水準にまで引き上げるとしたら、投資はほとんど行なわれなくなり、財政資金も調達できなくなる。日本経済は大混乱に陥るだろう。日本では収益性が低い投資しかできないのだ。
そうではあっても、2022年12月までは、現実の金利は抑制しすぎであった。このため、債券発行市場が歪み、海外のヘッジファンドからの投機取引が急増した。
したがって、この時点までは、金利をコントロールせず、長期金利を市場実勢に委ねることが、金利の観点からも、為替レートの観点からも、望ましいことだった。
政策金利を0.25%に引き上げ
日本銀行は、2024年7月30~31日の金融政策決定会合で、それまで0%から0.1%程度としていた政策金利(翌日物コールレートの誘導目標)を0.25%程度に引き上げた。
また、毎月6兆円程度の国債買い入れを、26年1~3月までに月3兆円程度に減らすことを決めた。
日銀はそれまで、金利を超低利に抑えるとともに大量の国債購入で資金を供給する異例の金融緩和政策を続けてきたが、2024年3月にマイナス金利解除とともに、17年ぶりの利上げに踏み切った。
しかし、金利急騰を抑えるため、国債買い入れ額は月6兆円程度を維持していた。7月の決定により、金利正常化をさらに進めるとともに、11年に及ぶ大規模量的緩和からの脱却方針が明確になった。
ここでの問題は、「なぜ利上げするのか?」という理由だ。
日銀は、景気と物価の好循環で安定的、持続的な2%物価目標の実現のめどがたちつつあるからだという。
だが、利上げが必要な真の理由は別にある。それを考えると、あまりに遅すぎる決定と言わざるをえない。
利上げは適切だが、判断基準は間違い
日銀は、従来から「物価と賃金の好循環が確認されれば、利上げする」としていた。追加利上げを決めた金融政策決定会合後の記者会見でも、植田和男総裁は賃上げの動きが中小企業などにも広がっていることや消費が底堅いとする判断を語った。「それ(物価と賃金の好循環)を確認できるようになったから利上げする」ということなのだろう。
しかし、「現在生じているのは、物価と賃金の好循環であり、望ましいことだ」という判断も、「好循環が確認できなければ利上げしない」という判断も、間違っていると私は考える。
本来目的とすべきは、「物価と賃金の好循環」ではなく、「経済の安定的な成長」だ。その観点からいえば、できるだけ早く利上げをして日米間の金利差を縮小させ、それによって円安の進行を抑えることが必要なのだ。その意味で、7月の利上げは、あまりに遅すぎる決定だったと考えざるをえない。
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この続きはは幻冬舎新書『日銀の限界』でお楽しみください。