

ストーンヘンジ行きのバスを逃したあとに
今から30年前、僕が18の頃にヨーロッパ一人旅に出かけた。大学受験に失敗して浪人することが決まったので、予備校に行く前の春休みに2週間ほど時間を取って出かけたのだ。
元々高校三年生の夏までサッカー部を続けていたし、現役合格はそれほど考えていなかった。本格的な受験勉強は浪人中の1年間でやるつもりだった。大学生は浪人生にはなれないけど、浪人生は大学生になれる。浪人も一つの経験だろうなんて言っていた。母を亡くしてから一人で僕と弟を養っている父から見れば何を余裕かましてるんだ?とも思っただろうが、一人旅の旅費も援助してくれた。
幼少期を過ごしたロンドンを訪れ、当時の旧友たちと再会した後、さてどうしたものかと考えた。最終的には生まれ故郷のパリに行くのだが、それまでの予定は特に決めていなかった。ふと、子供の頃に見たストーンヘンジのイメージが湧いて行きたくなった。当時は家族で車で行ったと思うが、今回は鉄道で向かうことにした。ウォータールー駅から鉄道に乗り、1時間半ほどでソールズベリ駅に着いた。下調べをちゃんとしない性格なので到着してからストーンヘンジ行きのツアーバスが出ていること、そしてそのバスはたった今出てしまったことに気づいた。
バス停の前で途方に暮れて立っていると50代くらいの夫婦が近づいてきた。夫人の方が話しかけてくれた。
「あなたもストーンヘンジ行きのバスを逃したの?」
「そうですね。次を待つしかないですよね。」
「それじゃ一緒にタクシーで相乗りして行かない?」
これも旅の醍醐味だ。僕は夫婦に便乗してタクシーに乗り込んだ。タクシーが街の風景を離れ、のどかな田園からだだっ広い草原へと僕らを運んでいく。しばらくするとストーンヘンジの巨石郡のシルエットが見えてくる。ああ、とても美しい。
「せっかくだし一緒に見学しましょ!」
夫人に誘われたので一緒に回ることにした。夫は結構な巨体で茶色のセーターとスラックス。頭髪は薄い白髪、立派な口髭を蓄えている。夫人は小柄で黒地に赤や紫の紋様が入ったかっこいいジャケットを羽織っている。ブロンドのショートカットで髪型もシャープに決まっている。夫はほとんど喋らず、夫人はよく喋った。
ストーンヘンジは本当に不思議な建造物だ。紀元前3000年〜2500年くらいの時期に造られているが、その目的は不明。天文台の役割を果たしているとされたり、ケルトの祭壇だったり、集団墓地だったりと諸説がある。もちろん研究者ならば本来の目的を探求したいのだろうが、僕は目の雨に聳え立つ巨大な謎という感覚の方に痺れた。わからないものが目の前にあるという感覚は、わかるものだらけの都会では忘れてしまったものだ。でも子供の頃は全部わからないものだらけで楽しかったなとも思った。ストーンヘンジの巨石郡は圧倒的な大きさで目の前に在った。
「ほんと何もわかってないわよね」
「はあ。実際、諸説あるみたいですけどね」
「そういう意味じゃないわよ。人間はほんと、何もわかってないってこと」
夫人はニコニコしながら石を見上げている。夫の方は頭上にちょうど登っている太陽を眩しそうに見ていた。巨石郡の影が僕らの足元に伸びる。太陽が真上にある割には影が長くて大きく感じる。帰りはソールズベリ行きのバスに乗った。
「この後はどうするの?」
「そうですね。せっかくなんでソールズベリ大聖堂を見に行こうかと思います。」
「あら。そんなのに興味あるの?でも面白いかも。あんた、一緒に行かない?」
夫人は夫の方を悪戯っぽく振り向くと夫はゆっくりうなづいた。一緒に歩き始めると夫の方が早足でどんどん先に行く。
「いつもは私の方がもっとせっかちなんだけどね。」
「今日はゆっくりなんですね」
「優しくしてるのよ」
ソールズベリ大聖堂はとても立派な建築物だ。13世紀に作られ、英国で最も美しい建造物とも言われている。入り口のチケット売り場の方に行こうとすると夫人に止められた。
「違うわよ。あなたもわかってないんだから。」
「え?どういうことですか?」
夫人は親指で後ろを指差す。出口だ。すると夫がパッと素早く出口の方に入っていった。夫人も続き、僕も慌ててついていった。
「こういうところは逆から見るものよ。綺麗な蓋みたいなものなんだから、裏側を見ないとだめ。」
何だかチケット代を誤魔化してるだけのような気もしたが夫婦と共に出口から見学することになった。聖堂には世界最古の時計が置かれている。1386年製だ。600年以上前から時間を測っていたわけだ。
「ストーンヘンジの頃にわかっていたことがわからなくなった象徴よ。」
またぐるっと回って大聖堂の出口から外に出る。夫の方は疲れたそぶりで腕を回していた。気づけば夕暮れだ。僕はこの後、オクスフォードの方に向かう途中のレディングあたりで宿を取ろうと思っていた。
「じゃあここでお別れね。あ、そうだ。この本あげる。」
夫人はハンドバッグから一冊の本を取り出した。エドワード・ルタフォード(Edward Rutherfurd)の「セイラム(Sarum)」というタイトルだ。
「ここがソールズベリになる前の町の名前がセイラム。そこにまつわる長いお話。結構面白いから!」
なんとも不思議で楽しい夫婦との旅。夫の方は最後にさよなら!と言って握手した時以外はほぼ無言だった。一人になってから鉄道の中でパラパラと本を捲る。ふと、全く関係ないアメリカのニューイングランドのセイラムのことが頭に浮かんだ。「セイラムの魔女裁判」で有名な街だ。そして、何となく僕は魔女夫婦と一緒になっていたのではないかという気持ちになってきた。
礼はいらないよ

You are welcome.礼はいらないよ。この寛容さこそ、今求められる精神だ。パリ生まれ、東大中退、脳梗塞の合併症で失明。眼帯のラッパー、ダースレイダーが思考し、試行する、分断を超える作法。
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