永平寺で修行をつんだあと、現在、広島の禅寺で副住職を務め、精進料理のブログ「禅僧の台所」も人気の吉村昇洋さんが、書籍『心が疲れたらお粥を食べなさい』を刊行いたしました。禅的食生活の心得を説く本書から一部を抜粋してお届けします。(写真:中尾俊之)
面倒くさいことを面倒くさいままで終わらせない
“片付け”というものは、そもそも面倒くさいものです。しかし、面倒くさがっていては、いつまでも汚いままですし、後々のことを考えれば、さっさと済ました方がよいということは誰もが知っています。
世の中には、“収納名人”や“お片付けマスター”と呼ばれる人たちがいて、テレビなどで収納や掃除の技を披露しています。そういった方々を見ていると、多くの場合“片付け”を生き甲斐にしていて、楽しんでいるように見え、視聴しているこちら側も「なるほど、そういう手があったか」と、ちょっとやる気が出てくることがあります。しかも、そういった人たちの大半は、技の伝授をビジネスに結びつけられているので、本来面倒くさい片付けに対するやる気を上げるという意味で、こんな好循環はありません。
といっても、皆さんにそうなって欲しいと言っているわけではありません。私が、彼らの態度から見習って欲しいと感じるポイントは、“面倒くさいこととの向き合い方”についてです。つまり、面倒くさいことをただ面倒くさいで終わらせるのではなく、片付けてきれいになったという結果に対する満足感以上に、自分にとって意味あるものにすることができるということを知って欲しいのです。
私が永平寺での修行を始めてまだ数ヶ月にも満たない頃のこと、慣れない生活習慣に毎日ヘトヘトになって、体力的にも精神的にも辛い時期がありました。そういう状態のときには、決まって自分を守るために言い訳がましい言動をするようになります。次から次へとやらねばならぬことが積み重なり、できないまま時間が経ち、叱責されることにも半ば慣れてしまうような状態でした。
上山当初に体験する特に嫌なことに、回廊掃除があります。回廊掃除とは、永平寺内にあるすべての建物と建物をつなぐ廊下を、朝食後すぐに大勢の修行僧が雑巾で拭いていく掃除のことを言います。文字で説明すると、たったこれだけなのですが、30分ほどかけて、延々と濡れ雑巾で廊下や階段を床拭きするのは、まさにしんどさの極みでした。
特に上山したばかりの頃は、それまで靴下に柔らかく守られた足の皮膚が、寒さと板張りの床に耐えきれず割れてしまうほどでしたし、濡れ雑巾といっても非常に固く絞ってあるので、床板では滑りが悪く、全身の力を入れないと前に進まないのです。ただ、大体半年も同じことを続けていれば、徐々に身体が順応して、初めの頃に比べれば疲れにくくなりますし、足の裏も皮膚が厚くなって割れにくくなっていきます。
修行生活も数ヶ月を過ぎたあたりのある日の早朝。私はいつも通り、この回廊掃除に参加していました。この頃になると、回廊掃除を楽にこなす方法を自然と身につけてきていて、雑巾をあまり絞らず水を含ませることで滑りを良くしようとする者や、手のひらではなく指先だけで雑巾を支え、その分圧力のかかる面積を減らして摩擦力を下げようとする者などが出てきていました。かく言う私も、例にもれずあまりのしんどさに思いっきり楽な方へと流れていました。
そんな中、ひとり全く手を抜かない同期の修行僧がいることに気づきました。彼の動きを見ていると、雑巾を押すときは手のひらをしっかりとつけていましたし、もちろん雑巾も固く絞っていました。また、階段の床を拭くときも適当さ加減は皆無で、隅々までしっかりと拭ききっていたのです。しかも、彼はそれをずっと継続していたので、正直に言って、すごいなぁといつも感心していました。
あるとき、「いつもちゃんとやって、すごいねぇ」と声をかけたのですが、彼は「それが俺の修行だからねぇ~」とあっけらかんと答えたのです。
衝撃でした。彼のその言葉を聞いて、いつの間にか自分は掃除を“やらされている”と感じていたことに気づきました。私は、自分から望んで修行をしに永平寺まで来たにもかかわらず、やるべきことをこなす毎日の中で、主体的に修行と向き合うことを疎かにしていたのです。そんな日々を私が過ごしている間にも、彼は己の隅々まで修行を行き渡らせていました。それゆえに、彼の回廊掃除は、人目を引くほど丁寧でしたし、美しいものでした。「あぁ、自分もこうなりたい」と心から思った瞬間です。
それ以降、私も主体的に修行に取り組み、何をするにも丁寧に行いました。もちろん回廊掃除もです。はっきり言えば、百数十人が一斉に掃除をするわけですから、手を抜こうと思えばいくらでも抜くことができますし、社会心理学でいうフリーライダー現象も起きやすい状況です。しかし、そこで自分の問題(修行)として捉え直すことで、己の弱さと向き合うことができるのです。