ベストセラー『死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人』(新潮文庫)の著者で共同通信記者の池谷孝司さんが新刊『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか』を出版しました。権力を使って生徒を支配し、わいせつ行為に及ぶ教師の実態を多角的に取材・分析した社会派ノンフィクション。本書から一部抜粋して5回シリーズでお届けします。
「どうしよう、どうしようと思っているうちに連れて行かれたんです」
智子さんは高校二年生だった当時を振り返る。
重厚な赤いドアは強く印象に残っている。その先には暗がりが広がっていた。ホテルに入ったのはもちろん初めてだ。かび臭い部屋は狭かった。カラオケセットと真っ赤なソファ、そしてベッドがあった。
バン。ドアが大きな音を立てて閉じ、驚いて肩をすくめた。「フー」。立ちすくんで深呼吸を繰り返す。指の震えを抑えようと両手を重ねた。
「気丈に振る舞えば大丈夫」。自分に何度も言い聞かせた。ソファに腰かけ、卓上の曲目表を開く。震える指でめくった。
「何を歌おうかな」
平静を装った。ぼんやり立っていた担任の山本は智子さんをじっと見て隣に座った。反射的に横にずれる。その瞬間、山本は肩に腕を回し、顔を近づけた。
「前から声を掛けたいと思ってた」
「やめてください」
口を堅く閉じ、山本の顔を腕で押さえて抵抗した。力ずくで抱き寄せ、「寂しい」「好きだ」と繰り返す相手を必死で押し戻そうとしたが、無駄だった。
「『なぜもっと必死に抵抗しない』とか『逃げればいい』とか言われるかもしれません。でも、どうしようもなかったんです」
山本は智子さんを抱え、ベッドに押し倒した。跳ね返そうとしたが、勝てなかった。
「押さえられて動く気力もありませんでした。服を脱がされて、歯を食いしばって我慢していました」
つらい記憶だ。
「初めてだったのか」
問い掛けにうなずいた。頭は真っ白だった。
「帰る時に何を話したかはよく覚えてないんです。口止めされたかもしれない。次に会う約束はさせられたんでしょう。二週間後の日曜に会うと決まってましたから。そのころは携帯電話も持っていなかったし、別れ際に約束するしかなかったはずです」
自転車に乗ると一学年上の恋人の顔が頭に浮かんだ。キスもまだだった。申し訳なかった。
親にどう話そうか。本当のことは話せない。
「図書館は空いてたよ」。そう言おう。親友の香奈さんと勉強し、昼食はラーメンを食べた。帰りはドーナツをかじった……。
「根を詰めたから疲れた。だから食欲がないの。今日は話したくない」
会話を想像した。
「ただいま」
母は夕飯の支度をしていた。普段通りの様子に落ち着き、洗面所に向かった。念入りに歯を磨く。唇と舌の表裏まで。そこまで念入りに磨く癖は、それからも続けるようになった。まだ夕方だが、風呂を沸かした。けげんそうな母に「寒いから」と手をすり合わせて見せた。
風呂に夕日が差し込む。鏡に映る顔を直視できず、うつむいて体をしつこく洗った。
「母と祖母が台所で言い争う声が聞こえました。いつもならうっとうしいと思うけど、この時は何だかほっとしました」