救急医療の第一線で多くの命と向き合ってきた著者によるエッセイ『見守られて生きる』が、3/10(火)に発売。連載第4回は、魂の自由についてです。あちらの世界とこちらの世界を、私たちは行き来する自由な存在。親しい人の死について、こちら側にいる私たちは、悲しみや後悔を抱く必要はないのです(全5回)。
前著『おかげさまで生きる』の冒頭、私は亡くなった母と交流(交霊)したエピソードを書きましたが、あれはある友人の霊能力者から「あなたのお母さんが『直樹に伝えたいことがある』と訴えて来られる。あなたはお母さんに申しわけないという思いを、毎日のように送っているでしょう」と言われたことがきっかけでした。
その後さまざまな交霊などでわかったこと、それは真っ当に生きて亡くなった方々が悔やんだり悲しんだりしているわけではないという事実でした。
皆さんの中には、すでに身内や親しい方を亡くされた方もいると思いますが、ひょっとしたらそのことで何らかの後悔をお持ちの方もおられるかもしれません。
親孝行らしいこともろくにできなかった、自由に伸び伸びと育てることができなかった、最後まで喧嘩(けんか)ばかりできちんと話せなかった、好きだというひと言がどうしても言えなかった。後悔にはいろいろなものがあります。
でも悔やむ必要は全くありません。
よく「自分のせいで死んでしまった」と口にする方がいますが、この言葉は二つの理由で間違っています。
まず、亡くなったのはその方の持って生まれた寿命であり、誰の都合でもありませんので、自責の念にかられる必要は全くありません。そして死んでしまったという言葉は根本的におかしく、私に言わせると「帰った」という言葉が適切なのです。
死んでしまったという言葉には、人生がこの世限りのものとする唯物(ゆいぶつ)論的な響きがあります。
亡くなった方の感想としては四つあります。 ①お役目を終えてホッとしている ②今がとても幸せ ③だから残った人に後ろ髪を引いて欲しくない ④でもたまには思い出して欲しい、この四つです。
あちらの世界の存在を信じることができない人ほど、死んでしまったという言葉を多用します。
しかし信じることができれば、死んでしまったという言葉を使う必要はありません。
「元いた世界に帰った」
そう表現するのが正しいのです。
残された人は、感謝の心で生きればいいのです。
*最終回「今、起きている出来事は偶然ではない」は3月20日(金)公開予定です