「アウトサイダー・アート」という言葉をご存じでしょうか? 障害者や犯罪者、幻視者など正規の美術教育を受けない作り手が、自己流に表現した作品群です。椹木野衣さんの『アウトサイダー・アート入門』では、社会から断絶し、負の宿命に立ち向かうために芸術に身を捧げた者たちを紹介しています。ダイジェスト版短期集中連載の第2回では、「アウトサイダー・アート」に対しての「インサイダー」について考えます。
インサイダー・アート
アウトサイダー・アートに対する「インサイダー・アート」はないのだろうか。実際には、そのようなことばが使われることはめったにない。けれども、「外」があるのであれば「内」がないのは論理的におかしい。内がなければ外も成り立たないはずだ。アウトサイダー・アートについての理解をさらに進めるため、では今度はインサイダー・アートとはなにかについて考えてみよう。
前振りなしにインサイダーというと、日本ではしばらく前から株や証券の裏事情を知る者による不正な優遇取引の言いまわしに使われることが多い。いわゆる「インサイダー取引」である。インサイダー取引で捕まって有罪となった人物が監獄でみずからを振り返り、絵の素養もないのに自分の内なる想いを絵や文にしたためた結果、それが優れたアウトサイダー・アートになることだってなくはあるまい。インサイダー転じてアウトサイダーになるという稀な例ゆえ興味深くはあるが、それはさておき、当面のインサイダーとは、つまりは裏事情通のことを指す。つまりインサイダーのアートも、業界にまつわるなにがしかの事情に通じているということだ。が、アウトサイダー・アートに対するインサイダー・アートといった対比を想定する場合には、裏事情というニュアンスはほとんどない。
かんたんにいえば、インサイダー・アートとは、先に触れたように主に国家やその権威による公認の美術のことだからだ。公認の美術が、そこに属さない者たちを排除するための一種の権力の仕組みであることはすでに触れたとおりである。ゆえに、おのずとそれは既得権をかたちづくる。既得権は万人に対して開かれていたらそもそも既得権ではないので、とうぜん一部の者たちによる「内輪」を生み出す。美術のように社会一般から広く認知されたことばであっても、美術を美術たらしめるための内輪の世界が確実に存在する。この領域のことをインサイダー・アートの世界と、ひとまず呼ぶことはできるだろう。もっとも、内輪と呼ぶとき、なにか同人であるとか小さなサークルのようなものを思い出すかもしれない。が、ここでの語にそうしたささやかなニュアンスはない。どんなに社会的に影響力のある強固なシステムであっても、その内実がかたちを崩さずに保たれているのは、なんらかの内輪の手で背後から守られているからである。美術の場合、この領域を保ち続けるための条件づけは、美術史であるとか、美術教育とか、展覧会などを通じて周知される。これらは美術館や大学といった公教育の機関を通じて国民に広められるから、すぐにはそんな気などしないかもしれない。しかしながら、どんな美術を公的と考えるかは、実はほんのひとにぎりの者たちの手で決められている。したがって、ニューヨーク近代美術館やロンドンのテート・モダンのように年間で何百万人もの鑑賞者を呑み込む巨大な美術施設が、たとえモダン・アートの殿堂としてどんなに機会均等に見えたとしても、実際には美術の内輪を成り立たせるために欠かせないインサイダーたちの一大拠点であることに変わりはない。
つまり、アウトサイダー・アートがアウトサイダーであるゆえんは、かれらがこうした美術の殿堂から長く閉め出されてきたことによる。事実、これまでアウトサイダー・アートは、そうした美術館の手では積極的に収蔵・展示されてこなかった。現在に至るまで、世界のアウトサイダー・アートの規範としての役割を持つスイス、ローザンヌのアール・ブリュット・コレクションは、もともと行き先の定まらないジャン・デュビュッフェ(あとに触れる)の個人コレクションをもとに作られた。ここがれっきとした美術の収蔵・展示施設であるにもかかわらず、あえて美術館を名乗らないのは、デュビュッフェが美術館という制度をひどく嫌っていたからにほかならない。このことに象徴されているように、アウトサイダー・アートは美術の内輪から周到に排除され、ときに利用され、もっと強いことばを使えば──かつて重度の障害者や病者が特殊な施設に集められ健常者の社会に「漏れ出ないように」されたように──なかば意図的に「隔離」されてきたのである。
このように、「アウトサイダー・アート」という語には、様々な負の要素がつきまとっている。決して「私はアウトサイダー・アーティストです!」と、一歩進んで自称できるような好ましいニュアンスではないのである。これまで書いてきたように、美術をめぐってアウトサイダーとインサイダーを分ける考えは一種の差別であり、両者のあいだに垣根を作って、外道が内輪に流れ込んでこないよう、しっかりと築かれた壁のようなものだからだ。もっとも、まったく逆に、このネガティヴな由来こそがアウトサイダー・アートにとって肝要欠くべからざる特徴なのだ、と裏返すこともできる。アウトサイダー・アートの担い手たちが社会的にはつねに弱者の側に身を置き、なんらかのかたちで世間からの誤解や差別、迫害を余儀なくされてきたことは、まぎれもない事実だからだ。