最後のページの最後の一行まで面白い、二回読んでも面白い。
話題のミステリ小説『出版禁止』の著者・長江俊和さんによる『あの女』の文庫解説を特別に公開。何を隠そう、真梨幸子さんは、長江さんが監督した映画、「放送禁止」の大ファン。『出版禁止』ももちろん大好きです。真梨作品の根底には禁止シリーズの魅力が流れているといっても過言ではありません。その長江俊和さんが読んだ『あの女』は一体どんな小説なのか! 文庫解説を特別に公開いたします。
●それでも書き続ける~作家としての業と「リアル」~
――長江俊和(小説家・映像作家)
ぶっちゃけた話をします。「そんなこと作家が言うたら、あかんやろ」などと怒られるのを覚悟で書きます。本作『あの女』を読んで、色々思うところがありましたので、ごめんなさい。
作品を生み出すということは、並々ならぬ苦労があります。時として地獄を見ます。
小説の場合、何百枚もの長編は、一日や二日じゃ書き上がりません。何ヶ月も、何年もかかります。最初はノリノリで書き始めますが、徐々に不安になってきます。これでいいんだろうか。面白いんだろうか。大丈夫なのか。寝ても覚めても、食事していても、風呂に入っていても、(別の)仕事をしていても、小説のことを考えています。アイデアが出ないでイラついて、自室のエアコンを殴り続け、エアコンは壊れ拳が血まみれになったこともありました。作品が傑作になるのなら、地獄に落ちてもいいとさえ思います。先が見えず、苦悩の日々は永遠に終わらないような気がしてきます。なんで自分はこんな苦しみのなかにいるのだろうか。だったら、小説を書くことなんかやめてしまえばいいのに……それでも、書き続けます。
作品が完成し世に出たら、世間の反応が気になります。出版させてもらっただけでありがたいことなのですが、できれば少しでも多くの方に読んで欲しい。そんな思いで足繁く書店に通い、自著の姿を眺めたりします。物陰から、わが子を見守る母の思いです。本の売れ行きは、もちろん気になります。売れなければ次はありません。本が売れるかどうかが、次回作への大きな足がかりとなるからです。書評やブログを読んで一喜一憂します。好意的な意見を目にしたときは、心躍ります。苦労して書いた甲斐があったと涙します。それはプロの書評でも一般の読者の感想でも同じです。パソコンに保存して、お守りのように何度も読み返します。執筆で煮詰まったときには、それを読んで励みにします。
その逆で、否定的な感想を目にしたときは、激しく落ち込みます。「確かにごもっともです」「その点には気がつきませんでした」「なるほど、そう思われる方もいらっしゃるのですね」「参考になりました。今後の創作活動に役立てます」。もっとダークな感情が芽生えるときもあります。「いやいや、そうじゃないんだけど」「この人は、ちゃんと読んでいるのか」「ただ文句言いたいだけだろ」「もう×××××××××(自粛)」。
世に放たれた時点で、作品はもう作者一人のものではありません。だから、「どう読むか」「どう受けとるか」は読者の自由です。「ちゃんと読まない」のも自由だと思います。それに全ての読者を満足させる小説などないですし、個性が強い作品ほど大きく評価が分かれるものなのでしょう。それでも辛辣な意見を目の当たりにすると、ぶっちゃけ冷静ではいられません。自分の人格や、長期間に亘った執筆の苦悩や苦労が全否定されたような、暗憺たる思いになります。
表現者としてそんなこと言ってはいかんのよ。小説家の苦労なんて、読者にはなんら関係ありませんよ。そんなことを一々気にしているあなたは、作家の資格なんかない。もちろんわかっています。そういったご意見があることも。
作家になる前は、私も同じでした。映画を見ては、友人と辛辣な意見を言い合い、小説を読んでは評論家を気取り、上から目線で酷評したものです。「俺ならこう撮る」「俺ならこう書く」。それが、作家になろうと思った原動力だったことも否めません。
時折思うことがあります。なんで作る側になったんだろうか。読者として観客として作品を純粋に楽しんでいるだけの方が、幸せだったんじゃないか。でも一旦作家の世界に足を踏み入れた今、もう後戻りはできません。
『あの女』は、そんな地獄に落ちた小説家たちをリアルに描き出しています。
物語は、所沢のタワーマンション、最上階の四〇一二号室が主な舞台です。そこに暮らす人気作家、三芳珠美と同時期にデビューした根岸桜子、二人の女性小説家の確執を軸に、この魑魅魍魎な物語は展開します。
二十代で流行作家の仲間入りを果たした珠美。そんな彼女と対照的に、働きながら作家を続ける三十五歳の桜子は、安アパートで暮らし、本を出しても初版止まり。そんな彼女は、常日頃からこう思っていました。「三芳珠美なんか、いなくなればいい」。桜子の願い通り、珠美は大停電の日、転落事故で病院に運ばれ植物状態となります。担当編集者の西岡は、書けなくなった珠美から桜子に乗り換え、一躍彼女は流行作家への道を歩み出します。
珠美の転落事故の真相は、一体なんなのか? 病院のベッドの上で、意識はあるのに身動きが取れない。その心象風景が、一連の謎を結ぶストーリーの要となり、予想外の真相に驚愕します。精緻に練り上げられた、極上のミステリーです。
代表作『殺人鬼フジコの衝動』のように、「もうこれ以上読みたくないと思うのに、ページをめくらずにはいられない」と賞賛される、イヤミスの女王の真骨頂は、本作でも否応なしに堪能できます。女同士の「嫉妬」「恨み」「確執」「虚栄」、心の奥底に溜まった「ヘドロ」のような感情を描写し、読者を震えさせる。その全編に漂うドロドロ感覚が、最後まで真実を包み隠すミスリードの効果まで果たしているのですから流石です。
それに本作には、登場人物たちが「作家」であるという地獄が加わるわけです。人に嫉妬されるのがモチベーションで、小説を書き続けているという珠美。「私がN賞を獲れば、死ぬほど悔しがる人がたくさんいるでしょ。だから、欲しいとは思っている」とまで言ってのける底意地の悪さ。さらに不倫関係にあった西岡の家族の話まで、ネタにして書くというしたたかさです。
桜子の方も、負けてはいません。何の気なしに書いた小説が、賞をとってしまい、作家への道を進んでしまった桜子。それが地獄の始まりでした。何としてでも売れたい、世間に認知されたい。そんな欲求に苛まれます。流行作家と呼ばれたい。人を蹴落としてでも……。
珠美の事故後、一旦は一線に躍り出るのですが、やがて忘れられた存在になってしまいます。また人気作家として世に出たい。再び小説家としての栄光を掴み取りたい。そんな思いで、桜子がとった行動には度肝を抜かれます(※ネタバレです。未読の方は、ご注意下さい)。なんと彼女は、自ら犯罪を名乗り出るのです。しかも本当は、やってもいない犯罪です。逮捕されてもいいから話題作りをして、作家として返り咲きたい。その行為は、自分を「阿部定」と偽り客をとっていた、娼婦の田中加代となんら変わりありません。
でもそんな桜子の感情は、恐ろしいほどリアルだと思います。どんな手段を使ってでも、這い上がりたい。たとえ地獄に落ちてでも……。それが作家の〝業〟なのです。
本作が醸し出している、このリアル感の正体は、一体なんなのでしょう? ちょっと推理してみます。本作『あの女』(単行本タイトル『四〇一二号室』)が出版されたのは、二〇一二年の十月です。『殺人鬼フジコの衝動』が文庫化されたのが、その一年半ほど前の二〇一一年五月。この『殺人鬼フジコの衝動』の文庫が大ヒットしたことをきっかけに、真梨幸子さんはベストセラー作家の仲間入りを果たしました。当時の真梨さんのブログには、以下のように記されています。
「殺人鬼フジコの衝動」に重版がかかりました! 重版、重版、重版……。ああ、なんて素敵な響きなのでしょう。「重版」なんて言葉、もう私には関係のないものだと諦めておりました。(二〇一一年五月二五日)
ここだけの話、「真梨幸子」という名前では(売れないので)出版はちょっと無理、ペンネームを変えようか? という話まで出ました。(中略)おかげさまで「殺人鬼フジコの衝動」が順調で、しばらくは「真梨幸子」で活動できそうです。(中略)デビューしてもう6年になりますが、スタートラインからの一歩が恐ろしく長く、我ながら、よく粘ったな…と思います。というか、もう、他に生きる糧がございませんから、死に物狂いです(笑)(二〇一一年八月二六日)
まさしく〝根岸桜子〟の言葉、そのものではないですか。さらに真梨さんは、美大の映画科出身。〝三芳珠美〟も映画監督を目指していた。珠美と桜子、二人の女性作家には、真梨幸子さん自身の体験が赤裸々に投影されています。本作に満ちあふれている、このひりひりとする感覚は、真梨さんの実体験によるリアリティからくるものでした。だから怖いのです。
作家となったなら、そこは修羅。売れなくても地獄、売れても地獄。もう後戻りはできません。
ただ、書き続けるしかないのです。