「そのスカーフきれいですね」橋本一樹(56歳)がいう。彼としては意を決していってみたのだ。少し顔が赤くなる。
「そうですか」高田康子(55歳)は首に巻いたスカーフを手で整えると、「下の娘の新婚旅行のお土産なんです」といってニコッと笑った。
その笑顔に橋本一樹は心惹かれた。
高田康子は女優の山岡久乃に似ていて、普段はツンとした冷たい顔立ちだが、笑顔になると優しさがにじみ出すような感じになる。
2人は神奈川近代文学館で「志賀直哉展」を観て、港の見える丘公園を歩き、いま山下公園に向かって坂を下っている。
橋本一樹はチノパンツの上に白いシャツ、上から紺のブレザーを着ている。高田康子は黒のパンツの上に襟ぐりの広い白のシャツを着て、上に襟の立ったベージュのジャケットをはおり、首に、彼が褒めたそのスカーフを巻いている。
「志賀直哉って趣味人だったんですね」彼女がいう。
「金持ちだからできたんでしょう」彼が答える。
2人はしばらく黙って歩く。
うまく会話がはずまないので、橋本一樹は気詰まりな感じがしている。〈これなら家でビールを飲みながらテレビで野球中継でも観ていた方が良かったな〉と思う。
橋本一樹は一年前にもらい火で火事に遭い、すべてを失った。保険金が下りたので家具などは買い替えたが、大切にしていたノートやアルバムは戻ってこなかった。人には「かえってスッキリしていいですよ」といっていたが、時間が経つごとにむなしさが彼の気持ちを覆っていった。
さらに追い打ちをかけるように希望退職の対象者にされた。結局退職し、いまは近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしながら、退職金を切り崩して暮らしている。彼は生きる意欲を失いつつある。新しいアパートの部屋は汚れ放題になり、以前は自分で料理をしていたのがすべて外食になり、酒量も増えた。
橋本一樹は、もう自分の人生は終わったという気持ちになっている。
浦和に住む妹から電話があった。妹の友人で、高田康子という人がそっちに行くから横浜を案内してほしいという。自分を心配してのお節介だろうと橋本一樹は思った。
最初はことわった。この歳でデートでもないだろう。それに何十年も女性と2人きりになったことがない。何を話したらいいのかさえわからない。妹は高田康子のために頼んでいるのだという。妹が考えたデートコースを彼に伝え、「気楽にね!」というと、有無をいわせずに電話を切った。
「ちょっと見てもいいかしら」そういうと高田康子は小さな店に入っていく。橋本一樹は後にしたがう。
60年代風デザインの家具や食器が並んでいる。彼女はひとつひとつを見て歩く。天井のスピーカーから歌声がきこえてくる。
♪ウォーウ ウォウォ
オイェーイ イェイェ
こんな気持ちが どんなに淋しいものか
あの人だけに もっとわかってほしいの
(「悲しき片想い」日本語詞:漣 健児)
「この曲」彼女が天井を指さす。「小学生の頃を思い出すわ」
「ヘレン・シャピロの曲だね」彼が小さな声で答える。「当時は弘田三枝子が歌ってた」
「そうそう。坂本九もいたし、森山加代子もいたわ」
「ジェリー藤尾、飯田久彦、藤木孝、それからダニー飯田とパラダイスキング」
「懐かしいわ」
2人はその60年代の店を出ると運河にかかる橋を渡る。
「あの頃はいまより暮らしやすかったような気がする。そう思いませんか?」彼がきく。
「子どもだったから、たぶん心配事がなかったんですよね」
「そうかなー、野球だっていまよりずっと活気があった」
「長嶋がいたから?」
「僕は大洋ホエールズのファンだったんです。いまの横浜ベイスターズですね。当時、秋山というサイドスローのピッチャーがいて、桑田という4番バッターがいた。優勝したんです」橋本一樹はひとりで思い出に浸っている。
「私が」彼女が強い口調でいう。「好きだったのは近藤和彦です」
橋本一樹は高田康子の方を見て、それから前に回りこむと、まじまじと彼女の顔を見る。
「へーえ、近藤和彦を知ってるんだ」橋本一樹は目を大きく見開いている。
「父が大洋ファンだったのよ」
「これですよ」そういうと彼は近藤和彦の独特のバッティング・フォームをしてみせる。左肩の上に両手を持っていき重い布袋を担いだような格好をする。
その仕種を見て、高田康子が笑った。
そのあとは話がはずんだ。『ウエストサイド物語』を観て路上で踊りだしたくなったこと、VANジャケットの服がほしかったけれど高いのでマガイ物でがまんしたこと、テレビ番組『若い季節』の主題歌が「ワーオ、ワーオ」で始まること……。
2人は山下公園の端から端まで歩いていた。
「歩くのに疲れたわ、ビールでも飲みに行きませんか?」高田康子がきく。
橋本一樹はびっくりした。女性の方から酒に誘われたのは初めてだったからだ。
橋本一樹は彼女を中華街のはずれにある小さな店に案内した。
デコラ張りのテーブルの上にチンゲンサイや玉子とトマトの炒め物、焼きそばなどが並び、お互いの手元には生ビールのグラスがある。
ひとつひとつの料理を食べて、彼女が「おいしい」というので、橋本一樹はすっかりうれしくなった。
ビールが紹興酒に変わる。
高田康子は、夫を胃ガンで亡くした後、2人の娘を育て、2人とも結婚したいま、自分の仕事も終わった気がして、なんだかむなしいと話した。
彼も火事ですべて失ったことを話した。
「離婚した原因は?」「なぜ再婚しないんですか?」彼女の質問に答える形で、橋本一樹は何十年かぶりで自分の内面を見つめることになった。
別居と同居を繰り返し、20年前に妻が「もう、無理」といって、彼を捨てて出ていったこと。その時に「あなたは自分のことしか考えられない人だから、結婚した相手を不幸にする、もう、誰とも結婚しちゃダメよ」といい残したこと。自分でも他人との共同生活はできないと思ったから、
「もう、結婚はしないって決めたんです」
橋本一樹は妻が去った後の悲しみにくれていた数年間を思い出した。
高田康子はテーブルの上にのっている彼の左手に自分の右手をそっと重ねた。そして、こういった。
「そんな言葉に呪縛されて生きるのは良くないわ」
2人は地下鉄の駅に向かって歩いている。通りには球場帰りのベイスターズファンがあふれている。きれぎれの話し声からするとベイスターズが勝ったようだ。
「ホエールズが勝ったらしいわね」高田康子がニコッと笑う。
「近藤和彦がまた打ったのかな」橋本一樹も笑う。
「これね」そういうと、高田康子は両手を左肩の上に持っていく。
思わず、橋本一樹は彼女を抱きしめたくなった。しかし、何もできないまま、しばらく彼女を見つめ、それから前を向いて歩きはじめる。
「また、会ってもらえますか?」彼がボソッとつぶやく。
「もちろん」そういうと彼女が腕を組んできた。
橋本一樹は体の芯の方から生きる意欲がムクムクと湧き出してくるのを感じた、おまけに涙があふれそうになっているのも。
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