今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
井上家を含む郭山疎開隊1094名は、引率してきた満洲国の役人数名を除いて、ほとんどが、子どもと女性、そして高齢者でした。働き盛りの男性の多くは、兵隊として出征していたからです。井上家も、主(あるじ)の寅吉に8月9日に召集令状が届いて出征しなければならなくなったので、喜代と4人の子どもたちだけで、避難してきたのでした。
疎開隊の人々は避難場所を転々としたのち、自分たちで越冬用のバラックを建てます。急ごしらえで作ったバラックは、狭く昼でも薄暗く、厳しい冬を越すには、あまりに貧弱でした。子どもや高齢者、母親たちが次々と病に倒れていきます――。
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病室には身動きできない五人の重病人が収容されていた。胸膜に炎症が起きて膿(うみ)がたまる「膿胸」で寝たきりとなった女性の向こうには、やせ衰えた母親が赤ん坊を横に寝かせて臥せっていた。藁ぶとんが子どもの汚物で真っ黒に汚れている。薄い掛け物一枚で横たわり、苦しそうにうめく母子の姿は痛ましく、生き地獄のようなありさまだった。
枕元には洗濯物が山のようにたまっていた。
「昨日の当番の人が、川が凍っていて洗濯できないから天気の良い日に洗ってもらえ、と言ってやってくれなかったの。もう子どものお尻に当ててやるものがないのよ」
母親は咳き込みながら切なそうに言った。
喜代は洗濯物を集めて洗面器に入れ、小脇に抱えて川に下りていった。石を投げつけて氷を割り、血管も凍りつくような冷たい水で洗いはじめたが、洗濯物はほどなくカチカチに凍ってしまう。ここまでして洗う意味があるのかと思うほどだった。凍りついたタオルやシーツを抱えて戻り、炊事場で分けてもらった湯ですすぎ直して広げるのだが、すぐにまた凍りついて硬い板のようになってしまう。これが朝鮮北部の真冬だった。
1945年秋から翌46年春にかけての食料品価格の高騰と、人々が持ち出してきた、なけなしの日満通貨の暴落により、疎開当初から食料は不足していました。バラックの建設費や薪(まき)を買う費用もかさみ、食糧調達はますます困難をきわめます。
朝夕の食事はとうもろこしの雑炊だけになっていた。幼児食は、わずかの米のおかゆにとうもろこしを挽いた粉を入れて量を増やした。炊事当番の母親は二人一組で一日中、古くて硬いとうもろこしを石臼でゴロゴロと挽き続けねばならなかった。
母乳が出る母親はもうだれもいなかった。離乳食にはまだ早い生後二、三カ月の乳児にもおかゆが与えられた。十二月までに誕生した二四人には流産や死産が多く、半数以上が数カ月と経たないうちに息を引き取った。ほとんどの女性が月ごとの生理もなくしていた。五、六歳になった子どもたちは空腹を訴えて泣きわめき、母親に嚙みついたり、蹴りつけたりしてくる。
母親たちにもヒステリー症状が蔓延(まんえん)した。
子どもたちはやせこけて目ばかり大きくなり、膝頭が大きくごつごつとしてきた。小学校に上がる年齢の子どもでも、遊びに出ることもなく黙って座り込み、大小便をたれ流してキョトンとしている姿が目についた。栄養失調の子どもは骨と皮だけにやせ衰えることもあるし、顔や身体に浮腫が出て逆にむくんでしまうこともあった。たとえ食べ物を目の前に出されたとしても、そういう状態に陥ってしまった子どもたちには、物を食べて消化する力さえ残されていなかった。
郭山への到着以来、疎開隊本部の手によって、日々の記録は「疎開日誌」に詳細にまとめられていました。年が明けると、日誌には「死亡」の文字が増えていきます。
毎日のように死者が出た。
扇とともに、満洲国経済部官吏の武田光雄(三二)が二人がかりで塚穴を掘り進めてきたが、厳寒期に入ると共同墓地の地面は完全に凍結し、スコップではまったく歯が立たなかった。冬に備えて用意していた塚穴は、相次ぐ死者の発生ですぐにふさがってしまい、新しく穴を掘ろうにも、もはや人力ではどうしようもない。スコップで凍土をできるかぎり削り取り、その上に遺骸を横たえるのが精一杯だった。
鶴嘴(つるはし)でもあれば新しい穴を掘れたかもしれない。しかし、本格的な工具の持ち合わせはなかったし、共同墓地の一角でそんなものを使用するわけにはいかなかった。スコップで何とか掘り進めようとしていると、凍った土のなかから以前に埋葬した遺体の一部が出てくることがあった。
そんな時、扇は作業を止めて「ごめんなさい」と謝り、もう一度手を合わせて念仏を唱えるのだった。
遺族や付き添いの人々は肉親のなきがらにむしろをかけ、扇や武田が削り取った冷たい土をその上にかけて埋葬に代えるようになった。共同墓地の斜面には、こうして周囲の地面から盛り上がった「土まんじゅう」と呼ばれる仮葬の塚が見渡すかぎり並んでいった。 すっぽりと雪をかぶった土まんじゅうの群れは、ひどく寒々としていた。
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「このままここにいても、ただ死を待つだけだ。なんとしても日本へ帰りたい」――疎開隊の人々はついに郭山からの脱出を決意しますが、そこにはさらなる試練が待ち受けていました。
本には、「疎開日誌」の実物の写真も掲載されています。興味を持たれたかたは、ぜひお読みいただけると幸いです。