ドバイに来た初日、私は泣き出しそうな気持ちでいっぱいだった。真っ黒なアバヤで身を包む女性たち、白いカンドゥーラをまとう大柄な男性たち……。実のところ、彼らの存在が怖くて、他の作家の背中に隠れていた。記者会見場の隅で一人お茶をすすり、「まあ、無理に交流を求めなくても……」と後ろ向きな言葉を自分に言い聞かせた。
けれど、この連載で明らかな通り、私は瞬く間にドバイの魅力に飲まれてしまった。滞在最後の一週間は「日本に帰りたくない」と一分一秒惜しみながら過ごした。それは、旅の中でしっかりと〈段階〉を踏んできたからだろう。
モスクを訪ね、お祈りの作法を習うこと。お祈りをする背中を見つめること。地元民エミラーティと共に、手でご飯を食べること。女性たちにおしゃれについて尋ねること。砂漠の砂に手を浸すこと。それら一つ一つの経験が、アラブの価値観に触れるものでもあった。
2015年2月1日
アブダビのシルバニヤス島で動物の息吹を感じた翌日、私たちは船に乗り、デルマ島へ向かった。アブダビ在住の女性作家にデルマへ行くことを話すと、「わざわざそんな田舎に行ってどうするの? 私だって行ったことないわ」と不思議そうに尋ねられた。
不安を覚えながらも、デルマ島へ到着。ガイドさんが車で迎えに来てくれた。車内でかかる音楽は、日本の若者も聴きそうな洋楽のヒットチャート。欧米のポップスは、彼らの中でも何となく「おしゃれ」なのかもしれない。デルマ島在住のガイドさんは、政府が支給した家で奥さんと暮らしている。自給自足を営む実家の農園や、奥さんの勤め先を案内してくれた。のんびりとした雰囲気が、空気にも時間にも満ちている。
泥沼にはまる惨事にみまわれた後(詳細略)、海辺でランチをとることに。ベドウィン料理のフィッシュビリヤニをテイクアウトしたいのだが、注文は厨房で直接受けるとのこと。年季の入った厨房にお邪魔し、炭焼きの魚を選ぶ。立ち込めるスパイシーな香りに思わずお腹が鳴った。
ビリヤニ、サラダ、ヨーグルトを調達し、ガイドさんは海沿いに車を停めた。ここで食べるの? と思いきや、道路の脇に絨毯を広げはじめる。どうやら、こちらの絨毯は日本のござのようなものらしい。
ビリヤニは前にドバイのレストランで食べたものとまったく姿が違う。魚は骨身を晒しているし、ひよこ豆のカレー煮や、ポテトが魚の上にゴロゴロとのっている。
大皿に盛られたビリヤニに直接手を伸ばして味わう。以前食べたマンディは一人ひと皿ずつだったので、他人と一つの皿を共有するのは初めて。他人の手がライスを混ぜているのを見つつ、指で魚の骨を探り当てる。慣れぬ手つきで口に運ぶ。以前得た教訓通り、きゅうりの薄切りの入ったヨーグルトをライスに混ぜてみる。美味しいが、いくら食べても山盛りのビリヤニは減る気配がない。横目でガイドさんを含む男性たちの皿を見ると、すでに皿の底が見えている。さすが地元の人は食べる量が違う。
潮風を浴びながらの食事は心地よく開放的だ。お腹が満たされたあとは、泥まみれの靴を波で洗い、砂浜や岩場を裸足で歩く。フジツボを踏んで「痛い」「熱い」と漏らしつつ、裸足で地面を確かめていくのは楽しい。
地元のミュージアムなどを訪ね、駆け足でドバイに戻ったが、忘れがたい素朴な時間を過ごすことができた。ドバイといえば大都市のイメージが強いが、近隣地域でのどかな暮らしを送る人も多いのだ。
2015年2月14日
最終日の夜、再び小澤学さんの案内で、世界最大のショッピングモール・ドバイモールへ。ファッション、アクセサリー、香水、葉巻、レストラン……。モール全体が広く、個々のお店がとても大きいため、眺めているだけで買い物欲はかなり満たされる。
他のみんなが買い物する横で、カンドゥーラやアバヤを着てショッピングを楽しむ人を眺める。スポーツショップのレジにカンドゥーラ姿で並ぶ人々。カンドゥーラとアディダス……。「スポーツウェアなんて、いつ着るんだろう」と学さんに尋ねると、女性は肌を露出できないので難しいが、男性はランニングウェアで走ることもあるそうだ。
カンドゥーラを着た人がアディダスのスポーツウェアを買うなんて、想像もつかなかった。何よりその光景を微笑ましく思う自分も想像できなかった。日本に戻ったら、こんな光景に出くわすこともないのだな。どこか名残惜しい気持ちでカンドゥーラの背中を見つめていた。
旅を締めくくる最後の夕食は、地元の人が通うマンディレストラン。第9回「詩人、手のひらで味わう」で訪ねた店より、やや庶民的な印象だ。マジリス型の個室に落ち着くと、それぞれが飲み物とマンディの種類を選ぶ。
チキン、フィッシュ、ラム(リブ肉)の三種類を、辛味のある赤いソース、マンゴーのジュースと共に味わった。これも大皿に盛られたマンディを全員で分け合う形式だ。旅がここからスタートしたら無理だったよね、と話しつつ、発泡スチロールの皿に、直に手でライスを取り分けていく。
学さんは、リブの骨の間に指をグイグイ入れて、肉をこそぎ取っている。思わず「骨を洗っているみたい!」と声を上げた。骨の間の肉が美味しそうなんだよね、と学さん。
まだ温かいリブの骨の間に指を差し入れてみる。骨の硬さと、温かい肉と汁の柔らかさが、指を伝って、全身に行き渡るのを感じた。そうか、この骨は生きていたんだ。指に絡まる肉をそのまま口に運び、生き物を食べている実感にわくわくする。
素晴らしい夜が過ごせたことに感謝しつつ、荷物を大急ぎでまとめ、深夜の便に乗るためドバイ空港へと向かう。疲れて寝てしまうかと思ったが、やはり名残惜しくて、絶えないネオンの明かりをじっと見ていた。一ヶ月の旅はついに終わったのだ。
ここにもう一度来ることがあるだろうか、と胸に問いかける。いや、きっと訪ねよう。誰かの背中の影からおそるおそる出てみよう。そして、みんなで一つの皿を囲み、骨を温かく洗うのだ。
***
6月7日(日)昼15時より、ドバイに関するイベントを開催します。
旅を共にした中島桃果子さんをゲストに、下北沢の書店B&Bにてトークあり、詩の朗読ありの特別な時間をお届けします。
イベント詳細は、下記B&Bサイトにてご確認ください。
◎文月悠光×中島桃果子
「詩人と小説家が見つめたドバイ――誰かと旅をすること」
http://bookandbeer.com/blog/event/2015060701_bt/