【再掲】発売後から、また新たに熱い視線を浴びる『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』(明智憲三郎著)。従来の本能寺の変論とは違う新説を打ち出し、話題となった著者が今度は織田信長に挑んだ。そこで作品の中から気になるテーマを試し読み連載にて掲載。天才信長の頭脳を読み解き、驚愕の真実を目撃せよ!!
連載第五回となる今回は、日本史史上最大の謎に刮目せよ!! なぜ光秀は信長を討ったのか?
明智光秀は、美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、諸国放浪の後に朝倉義景に仕官した。その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた。義昭の追放後は信長のもとで粉骨砕身働いたが、織田信長を恨むようになり、天下を取りたいという野望も抱いて謀反を企てた。
光秀は前夜になるまで重臣にも打ち明けずに一人で謀反を決意した。謀反は信長の油断から生じた軍事空白によって偶発的に引き起こされたものだった。
本能寺の変の勃発を知って徳川家康は命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが出遅れた。羽柴秀吉は本能寺の変の勃発を知ると毛利氏との和睦をまとめて台風の中を驚異的なスピードで引き返して光秀を討った。
以上のストーリーは歴史学界でもおおむね公認されている明智光秀と本能寺の変についての定説といえる。怨恨説を除いては高柳光寿著『明智光秀』に書かれて定説として広く受け入れられたものだ。この本は光秀謀反の動機として通説となっている怨恨説を否定し野望説を打ち出した画期的な書とされている。これを受けて歴史学界ではしばらく「怨恨説か野望説か」の論争が続いたが、動機以外については議論にはならず定説として固まった。
その後、黒幕説も含めて様々な動機論が飛び出したが、二〇〇六年に高柳説の継承者とされる鈴木眞哉・藤本正行両氏が『信長は謀略で殺されたのか』で黒幕説を否定し、怨恨説と野望説の両立を主張したことによって動機論にも決着が付いて定説を再確定した形になっている。
しかし、実はこの定説が神話に過ぎない。この神話を否定する様々な史実があるにもかかわらず、研究者がそれを見落とすか、あるいは敢えて無視しているだけなのである。
まず、光秀は仕えていた朝倉義景を見限って織田信長に仕え、永禄十一年(一五六八)に信長と義昭の二人を結びつけて上洛させたとされているが、そのことを書いた史料は江戸時代に書かれた『明智軍記』と熊本藩細川家の正史『綿考輯録』しかない。「本能寺の変」から百十年後に書かれた『明智軍記』の記事を、さらに四十年後に書かれた『綿考輯録』が引用・加筆したものに過ぎないのだ。『綿考輯録』には『明智軍記』を参照していることが堂々と明記されているにもかかわらず、そのことがすっかり見落とされている。『明智軍記』を誤謬充満の悪書と指摘した高柳氏が『綿考輯録』の記事を肯定したことによって神話になってしまったのだ。
本能寺の変当時に書かれた信憑性ある史料から総合的に判断すると光秀は上洛前から細川藤孝に仕えていて、陪臣として足利義昭の足軽衆となり、上洛後は義昭の直臣である幕府奉公衆に出世し、比叡山焼討の後に信長に仕えたということになる(詳細は『本能寺の変 431年目の真実』参照)。細川家は謀反人光秀との浅からぬ因縁を隠すために『綿考輯録』に『明智軍記』の記事を採用したのだろう。
二○一四年十月、熊本県の旧家から、永禄九年(一五六六)に信長が義昭に供奉して上洛する計画であったことを示す書状が多数発見されたことが広報された。その二年後の永禄十一年にあらためて光秀が信長と義昭の仲を取り持つ必要性など一切ないことが証明されたことになる。
「光秀は前夜になるまで重臣にも打ち明けずに一人で謀反を決意した」と初めに書いたのは『甫庵信長記』である。これも高柳氏が肯定したために神話となった。謀反の秘密の漏えいを防ぐためには誰にも相談するわけがないとしたのだ。
ところが、長曽我部元親の事績が書かれた『元親記』の記述が見落とされている。光秀の重臣の一人斎藤利三が信長の長曽我部征伐の動きを知って「明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれている。つまり、光秀の謀反の計画が既に存在しており、利三はそれを知っていて長曽我部救済のために謀反を急いだということだ。
『元親記』は土佐の長曽我部元親の側近だった人物が元親の三十三回忌に主君を偲んで書いたものである。後世に編纂された二次史料として『元親記』の記述は信憑性がないとして無視されてきた。しかし、信憑性においては『信長公記』の首巻、つまり大うつけや桶狭間の戦いなどの上洛前の信長を偲んで書かれた話の信憑性と何ら変わらないはずだ。無視されてきたのは、神話と合わない記述だったからであろう。
ところが、『元親記』の記述を裏付ける書状が岡山県の林原美術館で発見されたことが二〇一四年六月に広報された。『元親記』には信長の要求に従うようにと光秀が派遣してきた石谷頼辰の説得を元親が拒否し、その結果、信長が長曽我部征伐を決定したことが書かれている。発見された書状の中には頼辰を説得に派遣する旨を書いた利三の書状と本能寺の変直前になってようやく信長の要求に従う考えがあることを書いた元親の利三宛の書状がある。正に『元親記』に書かれた通りに事態が進行していたことを裏付けている。
三十三年以上前に起きた事件の詳細は記憶が薄れている可能性があるが、肝心な要点は覚えているものだ。特に、長曽我部氏滅亡という重大事にかかわる記憶である。そのようなことに記憶違いはないと考える方が妥当であろう。『元親記』の記述の信憑性が裏付けられたことによって、光秀が謀反の決意を前日の夜まで重臣にも秘密にしていたという神話が崩れたのだ。
見落とされているのは光秀に関することだけではない。命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが出遅れたとされる徳川家康の「神君伊賀越え」神話に関しても同じだ。本能寺の変の当日の朝に家康と重臣の一行は堺を出発して本能寺へ向かっていたこと、家康に同行していて一揆に殺されたことになっている穴山梅雪が本当は「切腹」させられていたこと、そして三河帰着後の家康が光秀討伐に動くどころか、匿っていた武田旧臣を織田領となっていた甲斐・信濃に直ちに送り込んで簒奪工作を開始していることなども見落とされたままだ。
秀吉の「中国大返し」神話も秀吉自身が家臣に書かせた『惟任退治記』に書かれた日程を高柳氏が肯定したことによって、大雨疾風の中を一日で八十キロも行軍したという異常さが見落とされたままになってしまった。秀吉が備中高松を早々に撤収していることを示す秀吉自身や重臣の書状の存在がよく知られているにもかかわらず、撤収日が正されることなく書状の方が嘘だとされている。これも神話に合わない記述がなされているからだ。
最後に、光秀謀反の動機を考える上で非常に重大な見落としを指摘しておく。光秀が信長を恨んで殺したとする怨恨説も天下取りの野望を抱いて謀反を起こしたとする野望説も、どちらも『惟任退治記』が基になっているということだ。つまり、現代の神話となっている光秀謀反の動機は秀吉が四百年以上も前に公式化したものなのだ。
光秀が謀反の直前に愛宕山で催した連歌会で発句(初めの句)に詠んだことで有名な「時は今あめが下知る五月かな」という句も、『惟任退治記』が天下取りの野望を表す証拠として初めて書いて広めたものである。これらの事実を見落として歴史学界は長らく「怨恨説か野望説か」の論争を行い、その末に「怨恨説+野望説」というそもそも秀吉が作った神話に一件落着しているのである。