前回、僕の予定として「病院に行って内視鏡の検査をする」ということを書いたが、現在はその検査も無事済み、結果の発表を待っているところである。検査をしても病状が改善するわけではないのだが、最初に痛みを覚えてからもう一カ月が過ぎるので、なんだかそこそこ治ってきたような気がする。痛みはあるのだが、痛みと付き合うやり方を覚えてしまったというか……。
胃の内視鏡(胃カメラ)を入れるのはもう三回目で、そうなると慣れたという気がする。ただカプセル内視鏡というものを飲んだのは初めてで、こちらは新鮮な体験だった。薬が入っているカプセルよりは一回りくらい大きいものに、フラッシュとカメラが内蔵されている。動作状態だと一秒間に二回、ピカピカと光る。内蔵されたカメラから撮影した画像は常に電波で出力されているので、体の表面にアンテナを張って、ハードディスクの入ったレコーダーを抱えて一日を過ごす。
カプセル内には情報は記録されず、全てのデータはレコーダーに転送されるのだという。レコーダーはちょっと重い。愛用のiPadで考えると5〜6倍はあろうか。もっと軽くできる余地はあるのだろうが、まあ専用機だから仕方ないよな。
カプセル内視鏡を起動させて、いよいよ飲むというときに、技師が僕に言った。
「これ、もう写ってるんです。あとで再生すると顔とか見えますよ」
そうか、と僕はカプセルを自分の前に置いて、そこでピースサインをしてみせた。
「……記念撮影しはったんは、初めて見ましたわ」
緊張していたのだが、なぜだかそういう行動を取ってしまったのだ。
ちょっと大きなカプセルを水で飲み干して、しばらくは絶飲絶食。数時間後から水を飲んで、さらに食事をして、やがてカプセルが大便と共に出てくる。それを探し出して返却しなければならない。なかなか気持ちいい作業とは言えなかったが、カプセルを発見したときは妙に嬉しかったものだ。飼っていたイグアナが相棒のクツシタを食べてしまって、それが無事出てきたときのことを思い出したりもした。口から入ったものは消化できなければ必ず出てくる。
カプセル内視鏡に何が写っていたのかは、これからの検査結果で説明してくれると思う。カプセルもレコーダーも、そして僕のお腹もよく頑張ったので、ちゃんと写っていて欲しい。
さて、検査のことはさておき、昨今の僕と息子の関係だが、腹が痛いせいもあってパパはけっこう短気な感じで息子を叱ることが増えたように思う。
五歳の誕生日までまだ四カ月以上残している息子だが、ここのところ、食事のときにちゃんと食べず、足を延ばしてオモチャを触ったり、または用意してもらったものに難癖をつけたりする。手を振り回してカップに入ったものをこぼす。そんな行為に対して、パパはがあーっと怒鳴って叱る。
息子を育ててきた時間軸の中で考えると、こんなふうに叱り始めたのは、ごくごく最近のことになると思う。
ゼロ歳の息子を育てるのは、ほとんどこちらがおろおろして振り回されているだけだった。一歳の息子、二歳の息子もまだコトバが出てこなかったし、ちょこちょこ走り回るのを慌てて抱きとめたり、大きな声で行為を止めたりすることはあったけど、それは「叱る」という領域ではなかったと思う。
それが、三歳を過ぎる頃から、「間違った行為を自己主張とともに続ける」ことや「元気が良すぎてちょっと怒鳴っただけでは止められない」ということが起きる。そうなると、息子を立たせてこっちを向かせてガミガミガミ。……あんなあ、お父ちゃんなあ、別に怒りたくて怒っているわけちゃうんやで。
最近はこちらが怒っても、もう聞き飽きたという態度を示すことさえするようになってきた。そうなると、その態度にまた怒りを覚えて、一から叱りなおしたりもする。なんだかとっても消耗する。
自分の四歳のときに、こんなだったかと思うほどの屁理屈や頑固ぶりを見せたりもする。
「ごめんなさいを言いなさい」
「……もういった」
「相手に聞こえてないごめんなさいは、言ってないのと一緒や。ちゃんと聞こえるように言いなさい。もういっぺん」
「……いわん」
「なんて?」
「………………(小さな声で)もういったんやから、いわん」
「ああっ? そんなん通用せん!」
「……(小さな声で)ごめん、なさい」
そんなような「へらず口」との闘いである。
この「ガミガミ怒る」ということにはエネルギーが要る。できれば使いたくないエネルギーだ。しかし息子は余計なことをする。何か、こう、ピンポイントでこちらの腹が立つようなことをしてみせる。あまり余計なエネルギーを使いたくない僕に、ないはずのエネルギーを充填して使わせるだけの心の動きも喚起してくる。そんなイライラさせ隊、チョロチョロ邪魔ノジャク、ムカチンスキーな息子の行動である。全部非効率。無駄。余計なもの。しかしそういうことをするのが、成長の過程なんだろう。そして親は叱る。コドモは叱られながら覚えていく。そういうふうにできているらしい。
しかし最近の僕は腹痛のこともあって、相手のことを観察しながらネチネチ叱る余裕がない。
そうなると「があーっ」と怒鳴って、息子を玄関の外に連れ出して立たせて、網戸状になった内扉のドアを閉めてガチャンと鍵をかける。
「ちゃんと自分、悪かったと思うまで、そうしとき!」
すると、三十秒くらい息子は口をへの字に曲げて、自分が正しいのだと踏ん張っているが、やがて泣き出す。そうやろ。まだ四歳だもんな。
「えーん、ごめんなさい。ごめんなさーい」
まあ大きな声で謝ったら部屋に入れてやる。しかし、親が間違っているとばかり、不貞腐れて床にゴロリ。絶対に謝らない日もないこともない。中学生かよ……。
そういうときは五分くらいもすると、僕のほうが焦れてくる。ついつい相棒に。
「こっそり意見聞いてきてやれ……」
とか言っている僕がいる。昭和三十年代のオヤジかよ、って思う。
なんとなく相棒のほうが「息子に似ている理解者」で、僕のほうが「厳しいパパ」という役割分担をするというのがいいかな、と思ったりもする。
まあ、そんなに毎日毎日怒っているわけではない。しかし、食事のときに衝突がおきやすい傾向にあるというのも確かだ。息子の食べることへの意欲、執着のなさと、食べさせたいという親心。あるいは苦手なものは食べたくないという息子と、苦労して料理したんだ食べてくれよというパパの気持ちとの葛藤がそこに集中するんだろう。
いよいよ季節は秋めいてきた。この文章を書いている今は9月末だが、10月に入れば息子の運動会もある。しかし僕の予定は未定。数日中にはカプセル内視鏡の検査結果も出てくる。その結果によって、開腹手術なのか、腹腔内手術、あるいは内視鏡での手術なのか、経過観察なのか、何か原因がわかって薬が処方されるのか、そうしたことが決まるであろう。入院ともなれば、息子が生まれて以来、初めて離れて暮らすということにもなり、それはそれで感慨深い。昨年だったら無理だと思ったが、今年の息子だったら相棒と二人でなんとか頑張ってくれるに違いない、と思う。
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『ツレがうつになりまして。』で人気の漫画家の細川貂々さんとツレの望月昭さんのところに子どもが産まれました。望月さんは、うつ病の療養生活のころとは一転、日々が慌しくなってきたのです。40歳を過ぎて始まった男の子育て業をご覧ください。