「今からそちらへ行ってお前に頼みたいことがある」
唐突な電話から2時間後、中上健次は僕の初台のアパートに居た。はじめて見る背広姿だった。ネクタイがうまく衿元にフィットしていなくて、妙な感じだったのをよく覚えている。
「30万円貸して欲しい。芥川賞を獲ったらその賞金で借金は返す」
なるほど芥川賞の賞金は当時30万円だった。要はこうである。酒場で喧嘩をして、傍にいた人に怪我をさせてしまった。向こうは警察に訴えると言っているが、30万円あれば示談が成立しそうだ。なんとか都合してくれ。
金もないのに二人でつるんで飲み歩き、しょっちゅう酒場で殴り合いはしていたがこんな事件に発展したのは初めてだった。中上健次はいつになく神妙にしている。すでにフォークリフトの運転手をしていた会社はやめていて、金は常になかった。
僕の預金通帳には50万円程があった。大学を出て入社した会社をすぐに辞めて1年間遊び暮らし、ようやく希望の出版社に就職したばかりだったが冬のボーナスがそっくり残っていた。正月にニューヨークにでも行ってみようかなどと考えていたのだが、即座にそれはあきらめた。二人で銀行へ行って30万円を引き出した。
その時に金がある方が払うというつき合い方をしてきたから、返ってくるとは思っていなかったが、30万円は痛いな、などと去って行く中上健次の厚みのある背中を眺めながらぼんやりと考えていた。第一、賞金で返すと言ったって中上健次はそれまでに3回連続候補となり、その度に有力と言われながら落ち続けていたのだ。
幾日かして中上健次から電話がかかってきた。事件は解決し、『岬』が芥川賞の候補になった。今度こそ自信があるなどと言うのだが、借金のことは一言も触れなかった。
「もし、獲ったら」と一番最後に中上健次は恥ずかしそうに言った。
「受賞第一作はお前の雑誌に書いてやるよ」
僕が籍を置いていた雑誌は『野性時代』というエンターテイメント誌だったから、純文学の救世主みたいな扱われ方をしていた中上健次にとってはずいぶん思い切った発言だった。
「だけど、いろんな義理だってあるだろうし、そんなことはあり得ないでしょう」
僕は跳び上がりたい程嬉しい気持を必死にこらえながら、つとめて冷静に答え、
「まあ、とにかくそんな話は受賞してからですよ」
と言って電話を切った。
年が明けて中上健次は戦後生まれとして初の芥川賞を受賞した。報せを待った銀座の小料理屋で中上健次は落ち着かず、メチャクチャに酒を飲んだ。相当酔いが廻り、そろそろヤバイなと思った頃に受賞の電話はかかってきた。中上健次は大きな身体をこれ以上できないくらい小さくかがめて、電話に向かって何度も何度も頭を下げた。泣いていた。僕も思わず中上健次に抱きついて声を上げて泣いた。
受賞第一作というのは本当だった。中上健次はその1週間後、校了寸前の出張校正室に自ら缶詰になり、丸2日徹夜して『荒神』という80枚の小説を書き上げた。僕は今でも書き終わった瞬間に僕を見上げた中上健次のくしゃくしゃの笑顔を映画のシーンのように思い出すことができる。
明け方の校正室で僕たちは握手をし、生温いビールで乾杯をした。
2月に入り、授賞式が終わった翌々日だったと記憶している。朝の9時頃に中上健次から電話があった。
「今からそっちへ行く、出社しないで待っていて欲しい」
2時間後、中上健次は僕のアパートに居た。2ヵ月前にやって来た時と同じちょっと窮屈そうなダーク・スーツだった。入って来るやいなや中上健次はズボンのポケットから勢いよく札束を取り出した。
「ありがとう。約束通り30万円は返す」
そう言って深々と頭を下げた。あんなに深々と中上健次に頭を下げられたのは、後にも先にもその時1回きりである。後年、僕は何度も個人的に中上健次に金を貸したけれど、いつでも「文学の王がお前に金を借りてやる」と威張っていた。
僕たちはそこから5万円を抜き取って酒を飲みに行った。新宿の区役所通りには昼からやっている店があって、僕たちはそこの馴染みなのだった。
酒を飲みながら交わす小説の話は尽きることがなかった。5軒ぐらい廻って最後の店を出る頃には、もう空は白みかけていた。小平まで帰る中上健次がタクシーを止めた。乗り込みながら中上健次が怒鳴る。
「おい、タクシー代がない」
僕は駆け寄り素早く中上健次の手に1万円札を渡す。僕はこの上もなく満たされていた。こんな時間が永遠に続いて欲しいと心底思っていた。
僕は25歳。中上健次、29歳。
こんな風にして僕の文芸編集者生活は始まった。