軍歌とは、軍部が上から押しつけたおそろしい音楽だと思っている人がいるかもしれません。しかし、実は、軍歌は、日本史上、最も国民の心を掴んだ音楽だったのです。国民にとっては生活に根差した身近な娯楽であり、レコード会社・新聞社・出版社にとっては出せば確実に儲かる商品、政府にとっては国民を戦争に動員するため道具だった、というわけです。『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』は政治と娯楽が結びつき、熱狂を生んだ末路がいかにおそろしいものだったかを教えてくれます。けっして現代と無関係な話ではないのです。
音楽は軍需品なり
一九四一(昭和十六)年七月二十八日、大本営海軍報道部第一課長の平出英夫大佐は、丸の内の電気俱楽部講堂で開かれたコロムビア主催の時局講演会「高度国防国家建設と音楽の効用」(戦争と音楽)の中で、「音楽は軍需品なり」と口走った。
平出は音楽に大して関心がなかったらしく、講演時間のほとんどを前月に始まった独ソ戦など欧州情勢の解説に費やした。「音楽は軍需品なり」という言葉も、音感教育が盛んになればソナー要員の養成に役立つといった、いかにも軍人らしい文脈で出てくるにすぎない。
しかし、この講演は音楽業界にとっては福音だった。というのも、軍のプロパガンダの責任者である平出の発言は、「音楽など無駄ではないか」「レコードなど贅沢品ではないか」などといった批判を跳ね返す強力な武器となり得たからである。
「音楽は軍需品なり」。されば、熾烈な戦争の中でも、物資が欠乏する中でも、音楽業界は音楽を発信し続けなければならない。弾丸のように。小銃のように。軍艦のように。飛行機のように。
平出の講演は「音楽は軍需品なり」と改題されて、同年十一月一日日本蓄音器商会より刊行された。そのおよそ一ヶ月後、平出はラジオを通じて真珠湾攻撃の大戦果を誇らしく国民に発表することになるだろう。
もとより戦時下の音楽が軍歌であることはいうまでもない。「音楽は軍需品なり」。もはや本来の文脈は忘却され、言葉はひとり歩きしていた。この掛け声のもと、音楽業界は総力戦体制に飲み込まれていく。一九四〇年代、「軍歌大国」は引き返せないところまで来ていた。
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