日中戦争および太平洋戦争期に神聖なる天皇讃歌の歌としてアジア太平洋地域に広く君臨した「君が代」は敗戦を迎えると、「日本国憲法」の精神に反すると批判が湧きあがります。占領下では式典などで歌われる機会も少なくなっていました。そこで「君が代」の新しい解釈がもたらされたり、新しい国歌構想の動きが起こったり――。最終回は、戦後の「君が代」をめぐる波乱を『ふしぎな君が代』より抜粋してお届けします。
「君が代」解釈のコペルニクス的転回
「君が代」が天皇讃歌である限り、国民主権をうたう「日本国憲法」下で国歌であり続けるのは難しかったかもしれない。戦時下の「君が代」のイメージはまだ当時強く人々の脳裏に焼きついていた。そのため、「君が代」の廃止を主張する者や、「君が代は~」の歌詞を「民が代は~」などと書き換えてはどうかと提案する者が後を絶たなかった。
そんな「君が代」を救ったのが、一九五〇(昭和二十五)年五月、第三次吉田茂内閣の文部大臣に就任した天野貞祐であった。天野は京都帝国大学教授、第一高等学校校長を歴任した学者で、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの研究で知られる。
天野は就任して半年弱の十月十七日に、「学生生徒児童に対し[……]進んで国家及び社会の形成者としての自覚を深くさせる」ため、各学校で訓話、講演会、学芸会、展覧会、運動会などの行事がある際に、「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましいことと考えます」という談話を発表。これが「君が代」復活の狼煙となった。
天野は決して偏狭なナショナリストではなかったが、健全な愛国心は道徳の荒廃を防ぎ、共産主義の防波堤になるとの立場だった。同年六月には朝鮮戦争が勃発しており、共産主義の脅威は日本にとっても他人ごとではなかった。天野もそれを受けて、「日の丸」と「君が代」を通じて、学校で愛国心を養うことは大切だと考えたのかもしれない。
ただし、天野も新憲法の下で「君が代」をそのまま復活させることは難しいと理解していた。そこで編み出したのが、独特の「君が代」解釈であった。十一月二十九日の参議院地方行政委員会における答弁にそれは端的に表れている。
国歌といえば今あの国歌よりほかにない。ところがそれは非常に不都合だというお考えは、私は法律というものをただ抽象的に考える考え方であつて、日本は現在といえども天皇が象徴として認められている。日本国の象徴であり又日本国民統合の象徴なんだ。主権在民といつても、一々の太郎、次郎が主権者じやないんで、国民への総意というものに主権があるわけなんですから、その象徴たる天皇は、我我は依然として認めておるのが現在なんだ。だから「君が代」といつても、その君というのは象徴たる天皇、即ち言い換えれば「君が代」というものは、日本国の存在という象徴なんだ。我が国といつても同じなんだ。
つまり天野の見解はこうである。「君が代」が天皇讃歌であることは否定しない。ただし、「日本国憲法」の第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と記されている。これを踏まえれば、「君が代」は、天皇というシンボルを讃えることを通じて、日本国や日本国民をも讃える歌と解釈できる。従って、主権在民の原則と「君が代」は矛盾しない。
天野は、素直な心で読めばこう理解できるとも述べているが、これは明らかに新しい解釈だった。「民が代は」などへの改訂の提案でもわかるとおり、当時は「天皇讃歌」と「日本国・国民讃歌」は矛盾すると捉えられていた。戦時下の天皇讃歌という厳格な解釈を踏まえれば、こちらの方がむしろ自然な考え方であったといえる。
それに対し、天野は「日本国憲法」の条文を利用して、天皇讃歌と日本国・国民讃歌を両立させる解釈を打ち立てたのである。まさに「君が代」解釈のコペルニクス的転回であった。
この解釈が天野の独創なのか、それとも文部官僚の意向を受けたものなのかはわからない。ただ、この天野の答弁は戦後の「君が代」理解の基礎となった。結果的に、天野は「君が代」を今日に存続させる最大の功労者となったのである。
日教組の反発と新国歌「緑の山河」
戦後「君が代」が問題となるのは、主に教育とスポーツの分野だった。そのため、戦後は解体された海軍省に代わって文部省が「君が代」の新しい擁護者となった。文部大臣の天野が「君が代」の新解釈を打ち出したのは、その点で象徴的なことだった。
しかるに、文部省の前には強力な敵が立ちはだかっていた。一九四七(昭和二十二)年六月に結成された日本教職員組合、いわゆる日教組である。日教組は天野の談話に強く反発し、一九五一(昭和二十六)年一月二十四、五日に催された第十八回中央委員会で、「一連の反動文教政策の中の最も集中的問題として君が代に反対するとともに新国歌制定運動を進める」という方針を決議。そして同年五月二十九日から六月一日にかけて開かれた第八回定期大会で、自ら「新国歌」の制定に取り組むことを決定した。その後長らく続く「君が代」をめぐる文部省と日教組の対立の始まりであった。
「君が代」にいくら反対しても、代わりの国歌案がなければ決め手に欠けてしまう。そこで日教組は同年九月その歌詞と楽譜を当時およそ四十五万人いたという組合員より募集した。
日教組の文書には「新国歌」「新国民歌」「新国民歌謡」と用語が入り乱れているが、「君が代」反対とともに「国歌」という言葉をここまで明確に打ち出したのは他の団体には見られない点だ。それゆえ、明治前半以来の画期的な事業だったといえる。
歌詞は約二万篇の応募作から東京都中央区京華小学校教員・原泰子の「緑の山河」が選ばれ、楽譜は約七百篇の応募作から新潟県高田中学校教員・小杉誠治の作品が選ばれた。完成した「緑の山河」は、一九五二(昭和二十七)年六月十六日より新潟県で催された第九回定期大会で発表された。サンフランシスコ講和条約の発効により日本が独立してから、およそ二ヶ月後のことであった。
越えて たちあがる みどりの山河 雲れて
いまよみがえる 民族の わかい血潮に たぎるもの
自由の翼 空を往く 世紀の朝に 栄あれ
歴史の門出 あたらしく いばらのあゆみ つづくとも
いまむすばれた の かたい誓に ひるがえる
平和の旗の 指すところ ああこの道に 光あれ
「民族」という言葉は今日では奇異に映るかもしれない。ただ、「民族」という言葉は決して右翼の専売特許ではなく、むしろ戦後すぐの時期は左翼もよく使用していた。「民族独立行動隊の歌」(一九五〇年)という革命歌があったほどである。
それはさておき、全体としては「自由」や「平和」を謳歌する歌詞といえる。日教組は普及のため、コロムビアに依頼して「緑の山河」をレコーディングしてもらった。一部の学校では児童生徒に教えた例もあったという。
ただ、結果的に「緑の山河」は日教組の歌にとどまり、国民の間に広がることはなかった。教育現場の力だけでは限界があったのかもしれない。それでも日教組は「緑の山河」を見捨てず、現在でも毎年開かれる教育研究集会で歌っている。
日本独立と「われら愛す」
一九五二(昭和二十七)年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は不完全ながら独立を果たした。その影響が顕著に現れたのがスポーツの分野で、国内では大相撲の五月場所の千秋楽でさっそく「君が代」が放送された。国外では七、八月に催されたヘルシンキ・オリンピックで日本人選手がメダルを獲得したことから「君が代」がやはり放送された。義務教育と違い、スポーツは大人に対する影響も大きかった。他の国歌候補曲は益々その芽を摘み取られた。
なお、翌年一月、壽屋(現・サントリー)が講和条約発効一周年を記念して、「私達もぜひフランスの国歌のような歌をもちたいものです」として「新国民歌」の募集を発表している。歌詞には五万八百二十三篇、楽譜には約三千篇の応募作が集まり、選考の結果、芳賀秀次郎作詞、西崎嘉太郎作曲の「われら愛す」が完成した。そして十月十日に日比谷公会堂でその発表会が開かれた。
われら愛す
胸せまる あつきおもひに
この国を
われら愛す
しらぬ火筑紫のうみべ
みすずかる信濃のやまべ
われら愛す
涙あふれて
この国の空の青さよ
この国の水の青さよ
(全三番のうち一番)
「われら愛す」は、今日「幻の国歌」と呼ばれることもある。確かに主催者の壽屋はフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」を見本としてあげた。同社は一貫して「新国民歌」と呼んでいたものの、もしかすると軍歌から国歌に変貌した「ラ・マルセイエーズ」のみに倣って「いつかは国歌に」と考えていたのかもしれない。だが、大々的な宣伝の割に大して流行らず、益々「君が代」の存在感を高めただけの結果に終わった。
このような「新国歌」もしくは「新国民歌」の構想は、ことごとく挫折するべく挫折したように思われる。というのも、その制作のやり方も、それに携わった人々も、戦時中の「愛国歌」「国民歌」のそれと大差なかったからだ。
「われら愛す」の作詞当選者の芳賀が、戦時下に「大日本の歌」という歌の懸賞公募でも当選していたことは象徴的である。芳賀は戦後に軍国主義に対する反省に立って「われら愛す」を書いたというが、その歌詞を見ると、大和言葉を多用した古風な感じといい、改行の仕方といい、そっくりなのがわかる。
雲湧けり 雲湧けり みどり島山
潮みつる 潮みつる 東の海に
この国ぞ
高光る
神ながら 治しめす
あゝ吾等今ぞ讃へん 声もとゞろに
類なき 古き国がら 若き力を
(全三番のうち一番)
また、作詞審査員の堀内敬三、土岐善麿、大木惇夫、西条、サトウハチロー、佐藤春夫、三好達治や、作曲審査員の堀内敬三、山田耕筰、増沢健美、古関裕而、サトウハチロー、諸井三郎らのほとんど全員が、戦時下には戦争詩や軍歌の類を作っていた文化人だった。
これは、もっとも「君が代」に批判的だった日教組の「緑の山河」でさえ同じだった。例えば、作曲審査員のひとり古関裕而が「露営の歌」「暁に祈る」「愛国の花」などの有名な軍歌——かつて「君が代」と一緒に東南アジアに送られた歌!——を手がけていたことは当時の人なら誰もが知っていただろう。
それに比べ、「君が代」には遥かに長い歴史があり、その作者たちは必ずしも戦争と関係があるわけではなかった。それゆえ、相変わらず「天皇の歌だ」「暗すぎる」などといわれつつも、「君が代」はまたしても難局を乗り切ることに成功したのだった。