8月28日発売以来、話題騒然の『キングダム』(新野剛志著)。社内で「真嶋カッコイイ!」と編集も営業も騒いだシーンを特別公開!
過激な暴力と圧倒的な権力で裏の社会を牛耳る半グレ集団、武蔵野連合。
その実質的頂点に君臨する真嶋の成功は各方面に軋轢を生んでいた。
上納金を上げるという、武蔵野連合の後ろ盾の暴力団、夷能会・松中。
真嶋には松中を黙らす”ある考え”があった。
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「もうそろそろ撤収させてもいいかと思うんですが、どうしましょうか」
電話をかけてきた柿崎が、そう訊ねた。真嶋はもうそんな時間かと、腕時計に目をやった。
午後九時二十分。予定の時間を過ぎていた。
「撤収してもらってかまわない。また明日の六時からよろしく頼む」
了解ですという声が、携帯の向こうから聞こえてきた。
「悪いが、今日のレポートは、今晩中に入れてくれ」
「メールに送っておきます。これからなので、朝方近くになると思いますが、大丈夫ですか」
「ああ、夜が明けるまでに送ってくれればいい」
自分の周りの人間は、みんな眠らないのだなと、妙に安心感が湧いた。
「いちおう、明日いっぱいまでの監視という予定でしたが、変更はないですか」
「——いや、もしかしたら、一日ぐらい延ばしてもらう可能性もある」
間違いないはずだった予定が狂い始めている。真嶋は冷めたコーヒーを口に含んだ。
「それぞれ予定がありますので、延長はちょっときついかもしれないですね」
「全員じゃなくてもかまわない。なんとか四、五人は監視がつけられるようにしてくれ」
「わかりました。明日一日ありますので、他の知り合いにもあたってみます」
考える間をおかず、そう答えた。
柿崎は、頼んでおいた七件目までのリストアップを終えていた。真嶋は、リストアップした人物の自宅を監視してくれるように新たな依頼をした。柿崎の調査会社は小所帯でスタッフが少ないため、知り合いの同業者に急遽頼んで監視の依頼に応えていた。
追加の調査料を提案したら、柿崎も今度は断らなかった。二百万程度の金だが、案外真嶋にとっては大きな出費となった。現金が尽きかけていた。マネロンで溶かした金を回収すれば金に困ることはないが、すぐに用意できる金は生活費レベルぐらいしか残っていない。仕事を軌道に乗せ、莫大な収入を得るようになってから、これほど手元から現金が消えたのは初めてのことだった。
電話を終えると、一階に下り、カウンターでエスプレッソのダブルを注文した。プレスが終わるのを待たずに、二階に戻った。
真嶋はオフィスから歩いて五分ほどのところにあるコーヒーショップにいた。酒井のところから戻って、オフィスで待機していたら眠気がさしてきたので、散歩がてら、コーヒーを飲みにやってきた。
松中から連絡はなかった。鷲美からもない。松中に交渉をまかせれば、簡単に決着がつくものだと思っていたのに誤算だった。
講壬会は松中が提示した条件が不満なのだろうか。いや、身代金を減額されるのだから不満はもちろんあるだろうが、それをはね返して増額交渉をするだけの胆力を、もち合わせているのだろうか。鷲美から連絡がないことから、松中と交渉に入っていることは確実にわかる。早ければ酒井のオフィスに金を運んだすぐあと、交渉に入ったはずだ。あれからもう七時間がたとうとしている。
金を払う意思を見せているのだから、本間に危害を加える恐れはないはずだ。しかし、これまで受けた暴行の程度がわからない。いいかげん、手当てを受けさせてやらないと、命に関わることもあり得るのではないか。夜が深まるにつれ、すべてが悪い方向に向かうような気がして真嶋は焦れた。
店員が運んできたエスプレッソに口をつけた。熱すぎると、階段を下りかけた店員にいちゃもんをつけたが、店員は離れたところから、二回頭を下げただけで立ち去った。真嶋もそれ以上言う気はなく、澄ました顔でコーヒーカップを口に運んだ。周囲の客の視線など気になりはしない。
十時前に日枝の携帯に電話をかけた。ひとりで仕事をこなさなければならない日枝は、深夜までオフィスを離れることはなかった。
「ああ、真嶋さん、いまちょうど松中さんと話をしていたところでした」でるまでにしばらくかかった日枝は、弾んだような声で言った。「ようやく、松中さんの携帯に繋がりまして」
「どうだったんだ。交渉はどうなっている」
「それが、うまく交渉がまとまらなかったようです。いまは、どこか外で酒を飲んでいるようです」
「講壬会の人間と飲んでいるのか」
「いや、そういうことではなく、話し合いを終えてプライベートで飲んでいるようです」
「じゃあ、明日まで話し合いは休止ということなのか。それまで進展はないと」
「そのへんははっきりしません。とにかく、交渉がまとまらなかったということしかわからないんです。たぶん額の問題なのだとは思いますが、そのへんの理由もはっきりとは——」
松中はいったいどういう交渉をしているのだ。最後は無理矢理額を提示して席を立てばすむ話だろうに。あの男はそれができる立場のはずだ。
苛立ちはもちろんある。が、明日まで進展はなさそうだとわかったら、焦りはなくなった。待つしかないのだ。
三十分ほど考え事をしてから真嶋はオフィスに戻った。日枝の仕事を手伝い、気を紛らした。日枝は自分も残りましょうかと申し出たが、仕事の目処がついた午前一時には退社させた。
柿崎からのレポートは、意外に早かった。ひとりでやることもなく、うとうととしかけた二時過ぎ、ワード文書が添付されたメールがパソコンに届いた。真嶋は、ホテルで待機していた沢井をオフィスに呼び寄せた。レポートをもとに、沢井が集めた若い連中がどう動けば効果的か、話し合った。日が昇り、窓の外がすっかり明るくなってから沢井はホテルに戻っていった。
鷲美から電話がかかってくるのではないかと思っていたが、なんの音沙汰もなかった。連絡がないということは、松中との交渉が決裂していない証拠だと思っていた。交渉が継続されるならば、時間はかかってもいずれは話がまとまるだろうと高を括っていた。
八時過ぎ、携帯に電話がかかってきた。松中からだった。話があるから九時に飯田橋の駅前にこいと言った。講壬会との交渉はどうなっているのかと訊ねても、会ったときに話すと言うだけで、答えはしなかった。
どうやら、見込み違いだったと真嶋は悟った。また嫌がらせのように雑踏での待ち合わせ。前にハチ公前で待ち合わせたときと同じく、松中は怒りが沸き返るような話を聞かせるつもりだろう。
九時に五分遅れて、飯田橋に到着した。JRの神楽坂口をでると、早稲田通りの路肩に黒塗りのベンツが停まっていた。真嶋は慌てることなく、ゆっくりと車に近づいていった。
ベンツのサイドウィンドウが開き、松中の顔が見えた。真嶋は立ち止まり、ドアに手をかけた。
「開けてもらえませんか。立ち話をする気はないんで」
「遅れてきて、何を言うんだ。こっちは時間がないんだ。話を伝えるだけだから、そこで聞け」
松中は陽に焼けた顔に皺を寄せて言った。
真嶋は黙って松中を見下ろした。
「講壬会との減額交渉は残念ながら決裂した。向こうも頑固でな、びた一文、減額には応じられないと、最初から最後までとりつく島もない。どうにもならんね」
松中は大きく首を振った。
「なめられてるんですね、講壬会に。恥ずかしくないですか、夷能会の幹部として」
「なんとでも言え。とにかく、俺は交渉から降りる。あとは、お前が自分でやってくれ」
松中の言葉を真嶋はなんの感情も湧き上がらせることなく受け止めた。回り道をしたが、最初の状態に戻っただけだ。
「戦争でも始めますかね、やくざと」
松中はちらっと真嶋を見上げたが、何も言わなかった。顔を正面に向けると、サイドウィンドウが上がり始める。
「ちょっと待て」そう言って手をかけると、ウィンドウは止まった。
「一億をできるだけ早く戻してくれ。口座に入った金を不用意に動かすことはできないだろうから、マネロンしていない裏の金でかまわない。サービスだ」
松中はおかしな顔をした。眉間に皺を寄せ、目を何度も瞬いた。
「なんの話だ。なんで一億を戻さなきゃならないんだ」
「交渉は決裂したんだろ。だったらもう必要のない金だ」
真嶋はそう言いながら、足下がぐらつくような不安定感をふいに覚えた。
「必要があるとかないとかの話じゃないだろ。あれは、交渉した俺への報酬だ。それを戻せと言われてもな——」
「ふざけたこと言うんじゃねえ。交渉に失敗して報酬なんてあるわけないだろ」
舌がもつれた。体が急に熱くなった。
「冗談だろ。最終的に決裂しようが、こっちは粘り強く交渉したんだ。あれはそれに対しての報酬じゃないのか。夷能会の幹部に交渉を頼めば、それぐらい高くつくとわかっているはずだが」
「なるほど」真嶋は大きく息をつき、そう言った。
松中を甘く見ていたのだと思い知った。さすがに夷能会の幹部なのだ。数千万円の金に踊らされて、こちらの思うとおりに動いてはくれない。すべては自分の判断ミスからきたことだが、自分を責める気はなかった。松中を許す気もない。
「松中さんは、俺が狂ってると思っていたのか。交渉に成功したときよりも失敗したときのほうが額が大きくなるような報酬を約束する人間だと思ったわけだろ」
「まあ、確かにそのへんはおかしなことだと最初から思っていたんだが、武蔵野連合は、理解に苦しむことをよくやらかすから——」
松中は口元に笑みを浮かべたが、目は油断なく、こちらを窺っていた。
「人間のクズに理解されなくてよかったよ」
当てこするつもりはなく、心底思ったことを口にしただけだった。
人間のクズと人でなし。似ているようで、まったく相容れない別ものだ。
「早く、窓、閉めろよ。目玉くりぬかれる前に」
言われたとおりにしたくなかっただけだろう。松中はサイドウィンドウを開けたまま、真嶋を見上げた。
「案外、冷静だな。何を考えてる?」
「もちろん本間のことですよ」
松中はふんと鼻で笑った。「だったら早く講壬会に金を渡してしまえ」
「そっちこそ早く、俺を本気で潰しにかかったらどうです。まだまだ手ぬるい」
本間には悪いが、不安や焦りは感じていなかった。ひとの痛みを憂慮するような繊細な心など、もともともち合わせていない。体の隅々まで広がる怒りを真嶋は楽しんでいた。
松中の肩が動いた。窓を閉めるのかと思ったが違った。松中は携帯電話を耳に当てた。
「ああ、俺だ。真嶋に代わる」
差しだされた携帯を受け取り、耳に当てた。「真嶋だ」と口にすると、「鷲美だ」と返ってきた。
「交渉をひとにまかせるのはよくねえな。——さあ、振りだしに戻った。金はいつ用意できる」
鷲美の声は、真嶋に負けないくらい楽しそうだった。
「用意はできてる。松中のところに取りにいけ」
真嶋は耳から外し、電話を切った。窓から松中の手が伸びてきた。渡そうと動いた手をすぐに止めた。腕を高く上げた。
腕を振り、携帯を投げる。ベンツの屋根を越え、車が行き交う車道に飛んでいく。
「何するんだ!」
松中は本気で驚いた顔を見せた。携帯が飛んでいったほうに顔を向ける。真嶋は手を銃の形にした。こちらに晒す、無防備な松中の後頭部に二発打ち込んでやった。
踵を返し、駅のほうに向かった。ドアが開く音が背後に聞こえた。クラクションが鳴り響いた。
真嶋は携帯を取りだし、沢井の番号に発信した。
「待たせたな。すぐに所定の配置についてくれ」
「了解です」と沢井の浮き立つような声が返ってきた。
「チャンスが訪れしだい、順次決行だ」
※本記事は8月28日刊行の『キングダム』(新野剛志著)の一部を掲載した試し読みページです。続きは単行本をお読みください。