昔も今も、女性の物書きをザックリと二分割する方法として、「好いた惚れた系」と 「そうじゃない系」という分け方があるかと思います。
好いた惚れた系とは、つまりは「いつも恋愛していないと気が済まないんです私」みたいな恋愛体質者であり、もちろん書く内容も好いた惚れた系。対して「そうじゃない系」とは、それほどアイコイアイコイ(=愛恋愛恋)していない人。
では、たとえば紫式部のような人は、どちらに入るのでしょう。「源氏物語」は好いた惚れたのエピソードが満載の物語であるわけですが、紫式部本人はいわゆる恋愛体質ではなかったような気がするのです。むしろ、数少ない経験をじっくりと醸成させて妄想をふくらませるタイプだったからこそ、あそこまでの物語を書き切ることができたのではないか。
平安時代における好いた惚れた系の代表といえば、和泉式部でしょう。彼女は、恋の歌をたくさん残した歌人。そして「和泉式部日記」を記した人でもあります。
そういえば紫式部は、以前もご紹介しましたが「紫式部日記」の中で、和泉式部に関するかなりの悪口を書いていたのでした。すなわち、
「和泉式部っていう人は、異性関係ではどうも感心できないところがあるみたいで、歌の方はそこそこ気は利いているけれど、知的な部分はあまり無いみたい。つまりはまぁ、もともと持っている才能だけで書いているっていうタイプの人だわね」
といった風に。
この悪口からは、理性を重視する人間である紫式部の、好いた惚れた系人間である和泉式部に対する嫉妬のようなものも、読み取ることができるのです。紫式部は、元々才能があったのはもちろんですが、努力や勉強も惜しまなかったことでしょう。だからこそ、
「私は、ただ『女です』っていう部分だけで書いているのではない。男性とも伍する知的さをもっているのだ」
という、並々ならぬ自負があったのだと思うのです。
そんな紫式部にとって和泉式部は、「ただ『女です』っていう部分だけで書いている人」に見えたような気がします。華々しい恋の遍歴を重ねつつ歌人としても有名であった和泉式部は、平安社交界の中でも話題になりがちな人でしたから、紫式部としては鼻についていたに違いない。
では和泉式部の華やかな恋の遍歴とは、どのようなものだったのでしょう。
彼女はおそらく、清少納言より少し年下、紫式部より少し年上、くらいの生年であると思われます。橘道貞という人と最初の結婚をし、彼が和泉国に赴任したことから、後年は和泉式部と呼ばれるようになりました。二人の間には、一女小式部内侍が生まれます。
普通の女性であれば、この辺りで人生は落ち着いてくるはずなのです。が、彼女の恋愛伝説はそこからスタートするのでした。冷泉院の第三皇子である為尊親王が、夫も子もある和泉式部に言い寄ってきて、二人は親しく付き合うようになるのです。
為尊親王という人は、非常に美男子、かつ遊び人であったようです。天皇の息子ではありつつ、皇位継承の目はまぁまず無いだろうなぁと予想される美男子である彼の遊び方は、ある種破滅的なものであったらしい。やがて彼は、若くして亡くなってしまいます。想う人を亡くし、和泉式部も悲嘆にくれたことでしょう。
しかし、話はそれだけでは終りません。為尊親王を亡くした一年後、今度は為尊の弟である敦道親王が、和泉式部に言い寄ってくるようになったのです。
敦道親王も既に結婚はしていましたから、言ってみればこの付き合いはダブル不倫。そして和泉式部は、世間から見たら「天皇の息子兄弟と次々と付き合う女」。今で言えば、浩宮と付き合った後に秋篠宮と付き合う、みたいなことなのですから(まぁちょっとは違いますけど)、話題性はたっぷりです。
和泉式部の登場によって、敦道親王の妻は怒って家を出てしまいますが、敦道親王は渡りに船とばかりに、和泉式部を家に入れてしまいます。が、そんなことをすれば当然ながら和泉式部の家庭をキープすることは不可能なわけで、彼女も道貞とは離婚するのでした。 敦道親王との仲がどのように終ったかは定かではありません。が、やがて彼女は実家に戻り、中宮彰子の女房として出仕し(そういえば紫式部も、彰子サマの女房でしたねー)、藤原保昌と再婚。やがて老境を迎える……とまぁ、和泉式部の人生とは、そんな感じであったわけです。
ではこの辺で、恋多き女であった彼女は、意地悪であったのか、という問題について考えてみたいと思います。和泉式部日記には、彼女が敦道親王と付き合い出してから、彼の妻が怒って家を出てしまうまでのことが記してあるのですが、そこにはわかりやすい意地悪な筆致は一見、存在しません。他人の悪口や怨嗟も、見てとることはできない。
が、しかし。それに騙されてはならないのです。具体的に意地悪な文章はそこにはなくとも、「和泉式部日記を書いた」ということ自体が、かなりの意地悪行為ではないかと、私は思う。
和泉式部日記は、今は「日記」と呼ばれていますが、かつては「和泉式部物語」とも呼ばれていたのだそうです。確かに和泉式部日記では、「私はこうしました」という書き方はされていません。
「とある女がいましてね、とある親王に寵愛を受けていたのですが、とうとうその親王の妻はたまりかねて家を出ていってしまったのですよ……」
という感じの書き方がなされている。
和泉式部日記には、敦道夫妻の別居の顛末などもかなり詳しく書いてあります。たとえば、敦道の妻の姉が敦道夫妻の不仲を聞いて、
「そんな家、出てきちゃいなさいよ」
と妹に言ってきた時に、敦道の妻は、
「本当にそうだわ。迎えをよこして下さいな」
と言った、とか。
しかしよく考えてみれば、和泉式部は敦道親王の不倫相手(ま、この時は一妻多夫制なので正確には不倫ではないのだが)なのです。夫妻が別居に至る詳しい顛末など、「なんで和泉式部がそんなことを知っているのだ」という部分でしょう。
つまり和泉式部は、「自分の不倫相手の妻が家を出ていくシーン」というものを、創作しているのです。それも、原因となっているのは自分の存在なのに。
敦道の妻が「出ていく」とまでなったのは、敦道が和泉式部を、自分の家に引き入れてしまったからなのでした。もちろん、和泉式部が乗り込んでいったわけではないけれど、妻としては夫の愛人が同じ家(とは言っても、相当広いですけど)の中にいるというのは、それはつらい状態だったに違いない。
そして和泉式部は、その一部始終を文章化しました。……ということは、敦道親王の妻に対するかなりの意地悪行為ということにはならないでしょうか。
彼女は、その文章を自分以外の第三者が読むであろうことを、意識していたはずです。「私は敦道親王の妻に勝った」ということを、読者に対してアピールしたいという気持ちが、ほんの少しでもそこにはなかったのかどうか。
「私は別に夫婦仲を壊そうと思っていたわけではさらさらありません。私もつらかったんです」という気持ちも、あったでしょう。しかし和泉式部のつらさより、他の女に夫を寝取られた敦道の妻の方が、よっぽどつらかろう。
和泉式部には、「この文章を敦道の妻が読んだら、もしくはこの文章の存在が彼女の耳に入ったら、彼女がどれほど苦しむことか」ということを考える想像力がありません。そしてその手の想像力が欠如しているということ自体が意地悪なのだと、私は思う。もしも「敦道の妻が読んだらいいのになぁ」なんていう気持ちがあったとしたら、これはもう筋金入りの意地悪者であるわけですし。
「敦道の妻はイヤな女で……」といったわかりやすい意地悪文を書くことなく、「私もつらかった」という調子で不倫ルポルタージュを書いてしまうという無意識の手練手管を持つ、和泉式部。彼女が残した歌の中に、
「かをる香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばやおなじ 声やしたると」
というものがあります。
これは、言い寄ってくる敦道に対して、
「橘の香によせて意味ありげな態度をするより、兄宮様(=為尊)と同じお気持ちかどうかをお聞きしたいものです」
といった意味。すなわち、「兄宮様と同じように私を愛してくれるのかしらん?」という内容であるわけですね。
自分に思いを寄せる人に対して、いきなり「私の元カレに対抗できるのかしら?」的な挑発的な歌を詠むというのも相当なもですが、その元カレというのが相手のお兄さんなのですから、彼女が持つ天賦の才を感じずにはいられない。
彼女は、自分が恋愛体質であることを自覚していたようです。敦道からさかんに歌を詠みかけられる女(=自分)のことを、「もともと思慮深い方ではなく、男ナシの退屈な生活にも慣れていなくてつらいので、何ということのない歌にも返歌をして……」などと分析している。決して「一人上手」などではなく、「つれづれ」には耐えられない性質であることを、告白しているのです。
男性を魅了せずにはいられなかった、和泉式部。彼女の、
「私は、別に自分から誘っているわけじゃないの。でもむこうからどんどん寄ってきてしまって、そんなことばかりく繰り返していると、けっこう虚しいものなのよ……」
という態度に、恋愛体質ではない女性達は「いやあなた、自分じゃ気付いてないのかもしれないけど十分に媚びてますって」と言いたかったに違いない。恋愛体質者とそうでない者の間にある溝は、千年前からとてつもなく深かったのだろうなぁと、彼女の文章を読んでいると、つくづく思います。
人間は、意地悪な生き物です。特に女性は、意地悪です。隠しても隠してもなお滲み出て匂い立つ、そんな「女の意地悪」を、自覚的意地悪・酒井順子が、古今の女性作家の文章の中から繙きます。紫式部の時代から、やはり女は、意地悪なのでした。