現在、コラムニストとしてだけではなく、コント作家、脚本家、舞台のプロデューサーなど、多方面で活躍中のワクサカソウヘイさん。
そのワクサカさんの新刊『男だけど、』が、とにかく笑える、共感できると好評発売中です。刊行を記念して、本の読みどころを一部ご紹介します。
第3回は、日本のパワースポットの最高峰、出雲大社への旅・中編。初めて訪れる出雲大社への期待感で、膨らむ妄想と抑えきれない興奮のなか、ついに目的地へ到着。しかし、足を踏み入れて感じたことは――。
* * *
“女の子ちゃん”は、パワースポットが大好きだ。
パワースポットを目的とした旅は、他の旅とは、醍醐味のスケールが違う。
しかも今回は、出雲大社。これはちょっと、そこら辺で転がっている旅とは、醍醐味どころか、「格」そのものが違う。仙台に行って、ただ牛タンを食べて駅ビルの観覧車に乗るだけの旅がイワシなら、出雲大社への旅は本マグロである。
なんで魚にたとえたのかはよくわからないが、とにかくJR山陰本線の車内で僕はひとり、これから向かう出雲大社の、その絶大なるパワースポットっぷりを想像して、胸をときめかせていた。
霧に覆われた出雲大社の参道。そこに道標のごとく、一筋の光が差している。その光を頼りに境内を目指すべく前へ前へと進むと、男がひとり、立っている。その男は現代には似つかわしくない、「いまにも蹴鞠を始めそう」な、平安時代の貴族のような格好をしている。
「道に、迷われたのですか?」
男は僕に、声をかけてくる。
はい、と僕は答える。
「では、私についてくるがいい」
さっきまで敬語だったのに、もうタメ口である。そこに何かしらの畏怖の念を抱きながらも、僕はおそるおそる男のあとを追う。
しばらく霧の中を進むと、ピタッと男は歩みを止める。
そしてその姿が、濃い霧風の中に消えていく。
すると、サッと目の前の霧が晴れ、巨大な出雲大社の本殿が眼前に現れる。その圧倒的な神々しさを前に、思わず言葉を失っていると、さきほどの男の声が聴こえてくる。
「さあ、祈りを捧げなさい。さすれば、あなたの願いは叶えられるでしょう」
声のする方向を振り向くが、そこにあの男の姿はなく、代わりに一匹の白蛇が佇んでいた。
「神々によって、我々は守られている」
僕は、そう直感する……。
以上、JR山陰本線の車内における、妄想である。
初めて訪れる出雲大社への期待感が膨れ上がったばかりに、僕の大脳新皮質は「森山直太朗」状態になっていた。
ああ! 出雲大社で僕は何を願おう!
やっぱり、世界から戦争がなくなりますように?
それとも、お菓子の家に住めますように?
はたまた、タモリ倶楽部の空耳ジャンパーがいつか手に入りますように?
夢想しているうちに願いのスケールがどんどん小さくなっていくのが気になったが、出雲大社に対する熱はどんどん高まり、やがて電車は出雲市駅へと到着した。
ここからバスに乗り継いで、出雲大社を目指す。待ってろ、八百万の神々! 僕は鼻息荒く、バスへと乗り込んだ。
「きゃー、いよいよ出雲大社ね」
“女の子ちゃん”も、興奮を隠せないようだった。
おかしい。思っていたのと、違う。
出雲大社に足を踏み入れて、まず最初の感想が、それであった。
なんというか、想像していた神々しさみたいなものが、ない。
いや、がんばって探せば、神々しさらしきものは、ある。あるっちゃ、ある。
参道脇の松林なんかはそれなりの雰囲気があるし、参道脇の鬱蒼とした松林が作る影は神秘的と言えなくもない。うん、つうか、松林関連にしか、いまのところ神々しさを見出せていない。
あと、本殿が思っていたよりも小さい。いやまあ、近所の神社なんかに比べたら、そりゃあ出雲大社のほうが大きいわけだが、想像していたような巨大さは、全然ない。森ビルに匹敵する大きさだと思っていたのに、これでは拍子抜けである。
それから、異常に参拝客が多い。パワースポットというからには、なんというか静謐な空気が流れ、しんと静まり返った中で神々の息吹を感じられる場所、みたいなイメージがあるのに、もう見渡す限りに観光客の山である。
「○○町内会御一行様」という旗を持ったガイドさんに先導されて、老人の団体が次から次へと参拝にやってくる。嫌でも老人たちの会話が耳に入ってくる。
「歯槽膿漏だから、昼食は柔らかいものが出るといいなあ」
「赤羽のよっちゃんがやってたスナック、先月潰れたらしいよ」
「孫って、可愛い。はっさくよりも、可愛い」
「とにかくオレオレ詐欺が怖い。あれは、よくない」
そんな会話を前にして、“女の子ちゃん”が文句をたれ始めた。
(なにこれ。出雲大社、チョーつまんないんですけど)
まずい、“女の子ちゃん”がふてくされ始めている。
(わざわざ島根なんか来なきゃよかった。原宿のbillsにパンケーキを食べに行けばよかった)
このままでは「ご褒美旅」が「がっかり旅」に変わるのも時間の問題だ。僕は老人の山を避けるようにして、本殿の脇へと移動した。ガイドブックによると、たしかこの辺りに「十九社二宇」があるらしい。
「十九社二宇」。神無月(島根県では神在月)には、全国の神々がこの出雲大社へと集結する。そして、その集った神々たちが宿泊する社こそが、「十九社二宇」。まあ、つまり、神様たちのホテルというか、宿泊施設の役割を果たす社なのである。
神様が寝泊まりする場所、それはおそらく想像以上のオーラに包まれているはずだ。人間が泊まるホテルでさえも、タッチパネルでルームタイプが選べたり、風呂が七色に光ったり、部屋の隅にスロットマシーンが置いてあったりと、いたれりつくせりである昨今。神々のホテルは、きっとその上をいくはずである。それを目の当たりにすれば、“女の子ちゃん”の機嫌も直るはず。そう期待を込めて、「十九社二宇」を探した。
しかし、「十九社二宇」とおぼしき壮大な建築物は、探せど探せど、見つからない。おかしい。地図によると、この辺りで間違いないはずなのだが。同じ場所を何度かウロウロした結果、ようやく「十九社二宇」と書かれた看板を見つけ、僕はそこに建っている建築物を目にし、愕然とした。
どう見ても、百葉箱なのである。
なんて小さな宿泊施設なのであろうか。しかも、ボロボロではないか。こんなところに、八百万の神々が一か月もの間、寝食を共にしているだなんて。
「おい、オレのジャージ、どこ置いたか知らないか?」
「痛え! 誰かオレの足、踏んだろ!」
「B班の人、もうすぐ風呂の時間おしまいなんで、急いでくださーい」
そんな、わさわさとしたマンモス高校の修学旅行的な会話がいまにも聞こえてきそうな狭さ。神の世界でも、いまや人口過密は避けては通れぬ社会問題なのであろうか。
こんな場所に、神々がひしめき合っているだなんて、考えただけでも切なくなってくる。そして、切なくなるとともに、出雲大社に対するがっかり度はぐんぐん急上昇である。
おかしい、なにかが違う。もっとスピリチュアルなものを求めて出雲大社に来たはずなのに、そこにあるのは現実的なトーンの悲しさだけである。
僕は(もう、帰りたいんですけど)とわがままを言い始めた“女の子ちゃん”をなだめながら、出雲大社入り口へと戻っていた。なにか、茶屋的なところで、抹茶がブレンドされたロールケーキなどを食べて、“女の子ちゃん”の気分を落ち着かせよう。そんな算段を立てつつ、参道を来た道へと戻った。
すると突然、そんな僕に声をかける人があった。
* * *
次回は11月3日(火・祝)更新予定です。
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