こうして文章を書いておりますと、知らなかった漢字に巡り会うことが多くあります。今回、壁のキズについて書くに当たりまして調べたところ、創作とか創造の“創”は、“きず”という読み方もあるのですね。意味としては、刃物などでつけられたキズを指すそうで。そういえば、創痕なんて言葉もありますね。これも切り傷のことですから、言われてみれば納得です。
さあ、豆知識も程々にしてキズの話を。僕の住処は、古いですからあちこちが傷ついたり穴が開いたり風化したりしておりますけれど、そんな傷のなかでも、こいつは最終回に紹介しようと残しておいたものがあります。玄関を入って右に進むと四畳半、その先に漆喰の壁に囲まれた台所があり、それを左に折れると、木目柄のデコラに紅葉の葉をあしらった曇り硝子の小窓付きの戸があります。戸を開けますと、この家の終点とも言える奥の奥。コンクリートに木の柱、漆喰の壁で作られた風呂場になっていまして、ここが今回の検証現場となるところです。
漆喰についてご存じのない方も、昔の城や蔵の壁を思い出していただければすぐにその質感を思い描いていただけると思います。白い、石のようなひんやりした手触りを持つあの壁が漆喰でして、防火性に優れていたり、湿気を吸ってくれたりすることから、台所や風呂場の壁に用いられていました。ただ、主成分が消石灰ですから、脆いという欠点もあります。少し強く爪を押しつけただけでも跡が残りますから、以前に取り上げた砂壁同様、使われる機会は少なくなっています。もちろん、この住まいの漆喰にも、あちらこちらに無数の傷が残されているわけで、傷の数だけ歴史があるといった風情です。
風呂場の壁にもいくつもの傷が残されています。ここに残されている傷が、当連載の最後を締めくくってくれる落書きです。
この落書きを初めて見たときには、洞窟を行く探検隊の気分でした。思わぬところで壁画を発見した、そんな感じです。真っ先に目に付いたのは、「塚」の一字。そこから右下に目を移すと、漫画風の顔らしき落書きが彫られています。僕が子供の頃、同年代の女の子が書くイラストはみんなこんなような顔をしていたのを懐かしく思い出しましたから、おそらくは子供がいたずらで刻んだのでしょう。塚の字も、筆跡はどこかぎこちなく、覚えたての漢字を使ってみたという雰囲気が感じられます。塚という漢字は教育漢字に含まれていないようですから、わざわざこの字を選ぶというのは、自分の名前に含まれていたと考えるのが妥当でしょうか。勝手に想像するならば、最初は平仮名で書いていた自分の名前を徐々に学校で習っていき、学校で教わらない塚の字を誰かに教わるか見よう見まねで書けるようになって、嬉しくて壁に書いてしまった、という具合ではないかと思います。顔の落書きには目や口がないことから、途中で見つけた親が叱りはしたものの、覚えたての漢字を書いていたあたりに嬉しさもあってそのまま残しておいた、というところでしょうか。
なにかを残そうとする行為は、道具によって人間が得た魂の行為だと思います。子孫を残すことをしない動物はこの世には存在しませんし、犬が縄張りにマーキングをしたり、栗鼠が餌を隠したりという行為も残すと言えるのでしょうが、繁殖にせよなんにせよ、それらの残すは、動物としての本能でしかありません。生活には直接関係のない、なにかしら意味を持つ記号を残す行為は人間特有の衝動です。旧石器時代にはラスコーだとかアルタミラの洞窟に壁画を残していたことが今日にも知られているのですから、人類の記録欲に関しては筋金入りです。
現代の人間は、ちょっとしたメモ書きから仕事の書類、芸術の分野まで、様々な記録の術を持っていますし、文明によって区画された都市にはルールが存在しますから、旧石器時代の壁画に相当するものを現代人が残せるかどうかはわかりません。でも、暴走族が橋のたもとにスプレー缶で痕跡を残すとか、幼い子が家の壁に落書きをしてしまうとか、そういう子供の行為は、人間として根源的な欲求のままに突き動かされた結果なのかなあ、なんて考えたりもしてしまいます。
もちろん、子供が家の壁に傷をつけるなんていうのは親からすれば困ったことだろうし、暴走族のマーキングなんてのは罰せられなければならないのが法治国家です。でもならば、そういう行為を人類の歴史における記録の原点と重ね合わせ、文明によって生み出された数々の記録・表現方法による文化へと導いてあげることも不可能ではないはずです。暴走族の懐柔は厄介ですけれど、我が子の成長をいっそう、文化として押し上げていくことならば、面倒だとは言ってほしくありません。そして、そういうことを教えてあげるためには、大人たちにも日々の勉強が欠かせませんよね。そういう意味では、子供が家のあちこちに付ける傷というのは、まさに“創”なのではないかと思えてくるのです。
最近では、落書きなんてマジックだろうがボールペンだろうが一拭きで綺麗に落とせてしまう壁紙があったり、少量でなんでも拭ってしまう魔法のような洗剤があったりと、家の物件としての価値がいつまでも維持できるようになっていますし、後々まで残る創というのはそうそう付けられないかもしれません。しかし、残された創には後の入居者が昔に思いを馳せるだけでなく、付けた本人も後々までその行為を思い出せるという利点があります。付ける度になんでも拭われてお終いでは、新たな記録方法へと進む機会まで拭ってしまいそうな気がしてしまいますから、どこか一カ所でも、家の中にいかにも脆そうな壁があってくれたらなあ、なんて勝手に考えてしまいます。いいではないですか、持ち家ならばそのうち直せばいいし、借りている住処であれば、退去時に直していけばいいだけなのです。お金はかかるとしても、それ以上のことが得られると思えば許容できるでしょうし、子供だって、創を見る度にこっぴどく叱られた記憶が蘇ってくるだろうから、別の方法で欲求を満たそうと歩き出すかもしれませんし。
そんなわけで、一年と数カ月ほどこのウェブマガジンに付けさせていただいた僕の創もこれで終わりです。ご愛読いただいた読者の皆様、それと、毎度毎度の遅い入稿に対応してくださった編集部の皆様、本当にありがとうございました。
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