11月8日に投票が行われたミャンマー総選挙。アウン・サン・スー・チー氏率いる野党NLD=国民民主連盟が国会の過半数を制し、政権交代が確定しました。長く軍事政権下にあったミャンマーで民主化運動を率いてきた、スー・チー氏。彼女はミャンマー国民にとってどのような存在なのでしょうか? 今こそ知りたい、ミャンマーの歴史、スー・チー氏と国民の関係を『ミャンマー経済で儲ける5つの真実』から抜粋してお伝えします。
なぜ経済制裁を受けるハメになったのか
今でこそ、人件費の高騰や政治関係の悪化などから中国への一極集中リスクが高まり、製造業を中心にインドネシアやベトナムへの注目が集まっていますが、かつてはミャンマーへの注目度の方が高く、東南アジア随一の経済力を誇っていました。
タイに駐在する日系社員は週末ともなれば、周辺国で最も都会的なヤンゴンに出かけていったと言います。日本でも1990年代初頭にはミャンマーへの投資ブームが起きていました。しかし、アジア通貨危機、経済制裁など度重なる逆風によって諸外国からの投資は一気に冷え込んでしまいました。
このミャンマーの経済成長の阻害要因ともなった経済制裁とはどのようなものだったのでしょうか。
米欧はスー・チーさんの軟禁や少数民族の弾圧など、人権抑圧を続ける非民主的な政治体制への圧力として1997年に経済制裁を発動します。度重なる民主化要請にもかかわらず、米欧の望む民主化は行われず、2003年に米国が、2004年にEUが制裁を強化しました。また、米欧だけでなく、カナダやオーストラリア、ニュージーランドも経済制裁を科しています。
米欧による経済制裁は具体的には次のような内容です。
・新規の海外からの直接投資禁止
・ミャンマー製品の輸入禁止
・国際金融機関の融資を含む金融取引の禁止
・旧軍事政権幹部のビザ発給規制、資産凍結
この中でも特に新規の直接投資禁止および、金融取引の禁止がミャンマーでの事業展開にブレーキをかけてきました。米ドルでの決済が不可能であるのだから当然のことでしょう。
日本政府はと言うと、米欧のような経済制裁は取りませんでした。1988年に成立した軍政をいち早く政府として認める等、ミャンマーを支持こそすれ圧力をかけるようなことはしていません。しかし米欧が経済制裁を強めるにつれ、歩調を合わせる形で、ミャンマーへの援助を人道的な支援のみに限定してきました。
日本企業、特に米欧と取引のある企業はミャンマーへの事業展開を控えてきました。非人道的な国と関係があるということが、本国での事業展開にも悪影響を及ぼすことを恐れたためです。
この結果、1990年時点でベトナムと同等だった一人当たりGDPは、その半分程度まで落ち込んでしまったのです。
経済制裁による西側社会からの孤立が軍事政権を中国や北朝鮮へと接近させるのですが、これについては後述します。
民主化後は「本気」をアピール
クーデターによって政権を奪取して以来20年以上続いた軍事政権は、2011年春に終わりを告げました。列強からの独立闘争の時代、ビルマ式社会主義の時代、軍事政権時代を経て、ミャンマーは新しい時代に突入したのです。
このミャンマーの民主化は、スー・チーさんが発信し続けたメッセージと、米欧による経済制裁、国際世論による圧力によってなされたと言われています。
また、経済制裁を科す米欧とは距離を取る代わりに長年、接近を続けてきた中国への依存体制からの脱却も民政化に踏み切った一つの要因です。
民政移管後初の大統領に就任したテイン・セインは、政治犯への恩赦や情報閲覧制限の廃止、少数民族との和解など矢継ぎ早に施策を打ち、諸外国に対してこの度の民主化が本物であることをアピールしました。
かつてはご法度だったスー・チーさんの写真が新聞のトップを飾り、人々の手に渡った際いよいよ国民が願ってやまなかった民主化が実現するのではと皆心を躍らせたのです。
こうした新政権の施策を当初は懐疑的に見ていた諸外国も徐々に、今度こそ本物らしいと評価し始めました。そして、クリントン女史の訪緬を皮切りに、あっという間にミャンマーは政治・経済の表舞台に躍り出たのです。
その結果、日系企業をはじめとする世界中の企業が、これまで二の足を踏んでいたミャンマー進出へと一気に踏み出しました。
「過熱するミャンマー詣で」と揶揄されるほど、各国から視察に訪れる企業・投資家は後を絶ちません。