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パリ同時多発テロと「ラ・マルセイエーズ」

2015.11.17 公開 ポスト

「ラ・マルセイエーズ」の熱狂的な合唱は、冷静な思考を奪い去りはしないか辻田真佐憲

11月13日未明に起こったパリ同時多発テロ以降、追悼と連帯の表明としてフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」が盛んに歌われています。しかし、元々戦意を高揚させるためのこの歌を熱唱することが孕む危険はないのでしょうか。軍歌研究者である、辻田真佐憲さんに、非常時と国歌の関係を伺いました。テロ犠牲者の方々への追悼と、今回のテロが戦争へとつながらないことを願いつつ、日本にいるからこそ、あえて冷静に考えてみたいと思います。


■「ラ・マルセイエーズ」と非常事態

 フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」がにわかに脚光を浴びている。11月13日夜のパリ同時多発テロを受けて、フランス人たちが街中で追悼や団結のために合唱しているからだ。その一部は映像となって、インターネットを通じて世界中に拡散された。それだけではない。フランスへの連帯を示すため、ロンドンで、ニューヨークで、東京で、今やあらゆる場所で「ラ・マルセイエーズ」が歌われている。

 思い返せば、1月に発生したシャルリ―・エブド襲撃事件に際しても、「ラ・マルセイエーズ」は歌われた。いや、もっとさかのぼれば、「ラ・マルセイエーズ」は時代を越えて、常に非常時に際してフランスで歌われてきた。あるいはフランス革命を鼓舞する歌として。あるいはナチ・ドイツの占領に対する抵抗の歌として。

 とはいえ、21世紀の現在、「ラ・マルセイエーズ」の合唱は果たしてテロ事件に向き合う行為としてふさわしいものなのだろうか。むしろ何か重要な問題を隠蔽してしまう危険性はないのだろうか。

■「ラ・マルセイエーズ」の危険な構造

 「ラ・マルセイエーズ」は、1792年4月、フランス革命戦争の初頭に、ライン川ほとりの国境の街ストラスブールに生まれた。当時、フランス革命を粉砕しようと、オーストリアの軍勢がフランス国境に迫りつつあった。迎え撃つは、フランスのライン軍という部隊。「ラ・マルセイエーズ」は、このライン軍を壮行するために、ルジェ・ド・リールという若い工兵大尉によって一晩で作り上げられた歌だった。それゆえ、当初のタイトルは「ライン軍のための軍歌」といった。

 つまり「ラ・マルセイエーズ」は、オーストリアの軍勢を打ち破れと叫ぶ、雄々しくも熱狂的な軍歌だったのである。

さあ祖国の子らよ、栄光の日はきた!
われらを倒さんと、暴君の血まみれの旗が掲げられたぞ。
聞こえるか、その獰猛な兵士どもが戦場にうなるのを。
やつらは、諸君の妻子を首斬りに、胸元までやってくるのだ!
武器を取れ、市民よ! 隊伍を組め!
進もう、進もう、
敵の汚れた血で、われらの畑を浸すまで!
(1番のみ、現在通用しているバージョン)

 やがてこの軍歌は、マルセイユの義勇兵たちがパリに広めたことから、「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれるようになった。この歌の人気たるやすさまじく、ほかの革命歌を押しのけて、1795年7月には早くも共和国の国歌に制定された。

 それにしても、「ラ・マルセイエーズ」の歌詞はいつ見ても驚かされる。「血まみれの旗」「首を斬る」「汚れた血で畑を浸す」……。なんという血生臭さ。こんなものを世界中で歌っているとは。だが、より重要な問題はその構造にある。

 すぐれた軍歌は、すべて物事を単純化する。敵と味方を峻別し、わかりやすい目標を提示する。「われわれ」はもちろん正義であるし、敵は完全に悪である。そこには白と黒しかなく、「どっちもどっち」などという曖昧な空間は存在しない。それゆえ、「ラ・マルセイエーズ」は、非常時に合唱する歌として最適なのである。邪悪な敵に対抗して国民がひとつとなるとき、「われわれにも問題があるのではないか……」などという自省はまったく邪魔だからだ。

 19世紀以降、ナショナリズムの盛り上がりとともに、世界中で数万にも及ぶ軍歌や愛国歌が作られたが、「ラ・マルセイエーズ」はその最良の見本のひとつとなった。まったく当然というべきであろう。軍歌や愛国歌はこうでなければ、士気の高揚や団結心の涵養(かんよう)に使えないのだから。


■フランス兵はかつて「ラ・マルセイエーズ」を歌いながらシリアを侵略した

「ラ・マルセイエーズ」は優れた軍歌である。それは誰も否定できない。だが、それゆえに、21世紀の現在、この歌が描き出す世界観を立ち止まって考えなければならない。

「われわれ」とは誰を指すのか。そんな簡単に「敵」と区別できるのか。また、ここでいう「正義」とは本当に普遍的な正義なのか。そんなものを振りかざして、敵の殲滅を絶叫してもよいのか。このように懐疑して立ち止まることこそ、二度の世界大戦――うんざりするほどの軍歌や愛国歌を生み出した――を経た人類の知恵だったはずだ。

 また、これだけ価値観が多様化し、社会が複雑化したなかで、世界を白と黒で単純に塗り分ける「ラ・マルセイエーズ」のような歌は、見るべき事実を隠蔽してしまいかねない。例えば、シリアはもともとフランスの植民地であり、フランス兵は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながらその地を踏みにじったという事実。言い換えれば、「ラ・マルセイエーズ」が「自由・平等・友愛」の歌だけではなく、また侵略者の歌でもあったという事実。しかし、熱狂的な合唱のなかで、こうした思考は奪い去られてしまう。

「ラ・マルセイエーズ」の合唱は、国民の一致を幻視させる一方で、冷静な議論を抑圧する。これは見逃せない副作用だ。おそらくネオナチたちは、排外主義にこの副作用を利用することだろう。注意深く今後のフランス社会を観察しなければならない。


■「ラ・マルセイエーズ」を必要とする時代は不幸だ

 もちろん、どんな歌を国歌にしようとフランス人の勝手ではある。ただ、われわれは「ラ・マルセイエーズ」の合唱を、どこか覚めた目で見ておくことも必要だろう。パリで今起きているような非常時は、やがてこの国にも訪れるかもしれないのだから。

 そもそも「ラ・マルセイエーズ」のような歌を必要とする時代は不幸だ。去年アンヴァリッドのミュージアムショップで、「ラ・マルセイエーズ」を含むフランスの軍歌CDを山のように購入して、店員に物好きだなと笑われたときのことを思い出す。軍歌など好事家のマニアックな趣味の対象にすぎなかった、その平時こそ今は懐かしい。「ラ・マルセイエーズ」の合唱に和することだけが犠牲者への連帯ではあるまい。

 私は、昔日の思い出を大切にしながら、パリに平穏なときが戻らんことを願ってやまない。

 

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辻田真佐憲

一九八四年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。単著に『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。また、論考に「日本陸軍の思想戦 清水盛明の活動を中心に」(『第一次世界大戦とその影響』錦正社)、監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。

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