村民が軍と一緒に戦い、村民の半分が命を落とした南風原村
こののどかな原が、3キロ先に歩く野良猫1匹が見えるほどの焼け野原と化した。1945年、今から70年前のことだ。 南風原町と書いて「はえばるちょう」と読む。南風が吹く原とは、なんと沖縄らしい爽やかな字面だろう。「はる」「ばる」の語源には、平地、稲作があったところ、はるばると景色が良いところなど諸説ある。南風原町は、平地のなかに黄金森(くがにむい)という小高い丘があり、穏やかで風光明媚。路地を歩くと、琉球絣の工房や織物を洗う井戸が、住宅のなかに隣合う。’80年までは「村」だった。
4人にひとりが亡くなった沖縄戦で、南風原村の沖縄での戦死者は3505人。人口の44%にあたり、2人にひとりが亡くなった。うち61%が同年6月1~23日までの間に死亡。終戦のわずか2か月前に、ひとりあたり52発といわれる米軍の砲弾にさらされ、絶望的な状況の中で、住民が軍と一緒に戦いを強要され村民の半分近くが命を落とした。
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