担当編集者もその面白さに一瞬にして惹きこまれたというプロローグ。現代語訳の妙を味わってください。
プロローグ
一 天正十年六月二日 朝
燃えさかる本能寺本堂における、
織田信長断末魔のモノローグ(現代語訳)
熱いな。だいぶ熱くなってきた。
それにしても、まさかこんな形で死を迎えるとは。だって昨日の夜まではごく普通の一日だったんだ。茶会をやって、その後、息子と飲んで。結構酔った。いつの間にか眠ってしまって、息子が帰ったのも気がつかなかったくらいだ。で、朝方、表が煩いんで目が覚めたら、この騒動。人生なんて、本当、分からないものだ。
俺の周囲を囲んでいる紅蓮の炎は、やがて俺の身体を焼き尽くすであろう。
せっかくなんで、ちょっとかっこ良く言ってみたよ。
そりゃ、もうちょっと長生きしたかったさ。俺がさんざん「人間五十年」と謡ってきたもんだから、世の中には、「信長様は五十歳を手前に亡くなられて、ある意味、本望だったのかもしれない」なんて言う奴が出てくるかもしれない。とんでもない話だよ。俺のプランでは、まあ、漠然としか考えてなかったけど、最低、七十くらいまでは生きるつもりだった。六十あたりで天下を統一してさ、後の十年は、安土城で悠々自適の生活。外国にも行ってみたかった。ポルトガルの町並み、この目で見たかったよ。
これは言っておいた方がいいだろう。光秀については、俺はそれほど腹は立ってない。まったく立ってないわけじゃないがね。そりゃそうだろ。あいつのせいで、俺、死んじゃうんだから。
光秀がなぜ兵を挙げたか。確かに俺にしてみれば、青天の霹靂ではあったよ。ただね、まあ、今からすれば、納得出来ないこともない。どうせ、後世の歴史家たちは、光秀の謀反の動機をいろいろ詮索するんだろう。もちろん俺にだって本当のことは分からないよ、でもこれだけは言えるんじゃないかな。あいつは俺に代わって天下を取ろうなんて、そんな、だいそれたことを考える奴じゃないってことだ。光秀はね、仕事を忠実にこなすことに生き甲斐を感じるタイプだ。結果的には出世を重ねたわけだけど、あいつにはそれほどの上昇志向はなかったと思う。いわゆる野心家ではなかったということだよ。それが藤吉郎との違いだね。あ、秀吉のことだよ。最近は筑前って呼んでたけど。あいつは上昇志向の強い奴だからさ。
光秀が謀反を起こした理由。俺にはなんとなく分かるんだ。なんとなくだよ。俺、光秀を追いつめ過ぎたのかもしれない。弁解に聞こえたらあれだけど、まあ、俺もこういう性格だから、カッとなったら、自分を抑えられなくなるだろ。そんな時、光秀の面が目に入ったら、ついつい、いじめたくなるんだよ。あいつ、そういう顔をしてるんだ。光秀って男、学もあるし、剣の腕も立つ。戦をやらせたってそこそこ上手だ。なのに、育ちのせいか、妙なコンプレックスを持っていて、どこか卑屈なんだよ。はっきり聞いたことはないが、あいつ、若い時分、ずいぶん苦労したみたいだからな。それが表情に出るんだな。そしてあの目。あの切れ長の一重まぶたでじっとこっちを見られると、なんだか無性に腹が立ってくる。なんであんなに腹立たしい目をしているのか、一度、じっくり観察したことがあるんだよ。それで分かったんだ。あいつ、白目の割合が人よりちょっと多いんだよ。黒目が上の方にあるから、上目遣いの時なんか、やけに人を小馬鹿にしたような表情になるんだ。卑屈なくせに、目つきだけ嫌らしいって、最悪だろ。いかん、思い出しただけで腹が立ってきた。いつだったか、皆が見ている前で、奴を蹴り倒したこともあった。欄干に奴の頭を押さえつけてグリグリしたことも。そりゃ光秀だって、むかついたと思うよ。理不尽な仕打ちだって、俺を恨みに思っても仕方がない。今回の謀反は、そんなところに理由があるんじゃないかな。俺はそう踏んでいる。すべては奴の顔のせいだ。この一件がさ、──ちなみにこれって「本能寺の乱」って呼ばれるのかな。それほど規模はでかくないしな。「本能寺の変」。いいんじゃないか。この「本能寺の変」が世間に広まれば、誰かが光秀の背後で糸を引いてるんじゃないかとか、いろんな憶測が流れると思う。でも本当は、光秀の顔なんだよ。あれがすべての始まり。そんなもんだよ、世の中なんて。まあ、それもこれも俺の推測だから、本当のところは光秀に聞いてみないことには分からないけどね。
なんだか息苦しくなってきたぞ。この煙はなんとかならんもんか。なるほど。焼け死ぬとはこういうことなのだな。燃えて死ぬのではなく、煙を吸って息が出来なくなり、挙げ句に絶命するのか。比叡山の坊主たちも、こうやって死んでいったのか。
俺が死んだ後、この国はどうなっていくんだろう。本当のことを言えば、そんなに心配はしていないけどね。信忠(註・嫡男)がいる限り、織田家は安泰だ。あいつは出来た子だから、俺の遺志を継いで、きっと天下を平定してくれるはずだ。だから、逆に言うとね、問題なのは、信忠も死んだ時だ。用意周到な光秀のことだ。ここを攻めると同時に、恐らくは信忠のところにも兵を差し向けたに違いない。うまく逃げ延びてくれればいいけど、あいつは諦めが早いところがあるからな。苦労知らずだから、粘ることを知らないんだ。敵兵を見て、もはやこれまでと、もし腹でも切ったりしたら。考えただけでも、ぞっとするよ。
その時は、かなりやっかいなことになる。信雄(註・次男)ははっきり言って馬鹿だし。信孝(註・三男)はまだましだが、器が小さい。一体どちらが跡目を継ぐことになるのか。いずれにしても、織田家の先行きは暗いと言わねばならんだろう。遅かれ早かれ、家臣の誰かに裏切られて滅亡するんだろうな。例えば誰だ?勝家か?いや、あいつは義理堅い男だから、まずないとして、秀吉あたりが怪しいな。うん、あいつはあり得る。野心家だからな。今までは俺の言いなりだったが、この先はどう出るか分からんぞ。まあ、それも一興。いずれにせよ、明智光秀を滅ぼした者が、次の時代を担うことになるのは間違いない。誰になるのか、それはそれで見物だ。
どんどん熱くなってきた。もう煙で一寸先も見えないよ。いや待て、これは俺の目がかすんできているのか。もうどっちでもいいや。そろそろ腹でも切るか。気を失う前に、武士らしく死ぬことにしようか。
それでは皆さん、さようなら。なかなか楽しい人生だったと言えるのではないでしょうか。光秀、地獄で待ってるぜ。
今、ちょっと腹の皮を切ってみた。あ、意外と痛い。お腹切るって結構、きついんだね。
もうちょっといってみるか。あ、痛い ててててて。痛てててて、痛ててててて。やっぱり死ぬのって大変だわ。
本記事は幻冬舎文庫『清須会議』(三谷幸喜 著)の全290ページ中14ページを掲載した試し読みページです。続きは『清須会議』文庫本、または電子書籍をご覧下さい。
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