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探検家の日々ボンボン

2013.11.06 公開 ポスト

三大北壁と子供と母と男と女―

金原ひとみ『マザーズ』を読む角幡唯介

  数年前、大学探検部の後輩から、これが最後になるかもしれないから、ちょっと山登りに付き合ってもらえませんかと誘われたことがあった。山好きにとっては穏やかではない話なのでその理由を聞いてみると、奥さんが妊娠したのだという。

「子供が生まれたら数年間は山には行けないでしょうから、最後に納得の行く山登りをしたいんです」

 結婚もしていなかった当時の私にとって、家庭を持って子供を育てることは、チベット探検や北極探検を上回る非日常的の極致だったため、そんな未知の領域に足を踏み出すことを決心した彼の逞しい心意気を是として、私は岐阜県北アルプスの峻峰錫杖岳に一緒にクライミングをしに行くことにした。

 錫杖岳というのは標高こそ二千百六十八メートルとさほど高いとは言えない山だが、全面的に傾斜のきつい針のような岩壁で身を固めており、とりわけ近年はそのアプローチの至便さも手伝って、夏冬問わずテクニカルなクライミングを志向する登山者から人気を集めている山である。私たちが登りに行ったのは「北沢大滝~見張り塔からずっと」という長い名前のルートで、技術的にはさほど難しくないものの、しかし無理なく本峰の頂上まで登れるのがウリの気持ちのいいルートだ。この時は残念ながら前日降った雨の影響で上部の岩壁がまだ濡れていたため途中で敗退となってしまったが、しかしそれでも後輩は最後に岩に触れたことで気持ちの整理がついたらしく、これでしばらく山から足を洗って育児に専念できます、というようなことを言ったかどうかは覚えていないが、とりあえず憑き物が落ちたような晴れやかな顔はしていた。そしてロープを畳みながら面白いことを教えてくれたのである。

「俗に三大北壁って言うらしいですよ」

「何が?」

「就職、結婚、育児」

 なるほど。言い得て妙な比喩だと思った。

 三大北壁とは登山の本場ヨーロッパアルプスにあるアイガー北壁、グランドジョラス北壁、マッターホルン北壁という三つの巨大な岩壁のことだ。いずれも困難で危険、もちろん過酷。初登頂に至るまでの歴史にもドラマ性があり、登山界で三大北壁といえば岩壁の中の岩壁とでもいった象徴的な存在として認知されている。後輩が教えてくれたのは、「山ヤ」が山を登り続けるのに障壁となる三つの出来事を、その三大北壁に例えて言った言葉だった。

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探検家の日々ボンボン

冒険も読書も、同じ秘境への旅なのかもしれない――。探検家の、読書という日常のなかの非日常。

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角幡唯介

1976年北海道生まれ。早稲田大学卒、同大探検部OB。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』で講談社ノンフィクション賞を受賞。

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