終戦直後の1948~53年に、中学・高校社会科教科書として使われた『民主主義』。日本人が最も真剣に民主主義に向き合った時代の、高い理想と熱い志に溢れた教科書『民主主義』が、社会学者・西田亮介さんの編集により復刊されました。
幻冬舎新書『民主主義――〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』より、読みどころをお届けする最終回です。
地方選挙から国政選挙まで、最近の選挙のたびに話題になるのが投票率の低さ。ですが、民主主義の発達とは、すなわち選挙権拡張の歴史であり、財産にも性別にも関係なく投票ができる権利は、わたしたちの先達が、長い闘いのすえに獲得したものです。
「分かってる。もう聞き飽きた」と言われそうな「選挙権の重要性」について、教科書『民主主義』であらためて考えてみたいと思います。
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民主主義が、単に選挙の時に投票をしたりする政治上の民主主義だけでなく、もっと広い、もっと大きな事柄であることは、前にも述べた通りであるが、その政治上の民主主義を実現するには、各個人が政治に参与することが、不可欠の要件であることもまた、疑いのないところである。教育の普及にせよ、交通の発達にせよ、経済の繁栄にせよ、政治のよしあしによって影響されるところが非常に大きい。そのたいせつな政治を、人任せでなく、自分たちの仕事として行うという気持こそ、民主国家の国民の第一の心構えでなければならない。
日本人の間には、封建時代からのしきたりで、政治は自分たちの仕事ではないという考えがいまだに残っている。東洋では、昔から「由(よ)らしむべし、知らしむべからず。」ということが言われて来た。政治をする者は、人々をその命令に従わせておけばよいのであって、政治の根本方針を知らせることは禁物だ、という意味である。政治の方針を知らせると、それをいろいろと批判する者が出て来て、かってな政治ができなくなるからである。
わが国の政治家も、長い間そういう態度を採って来たために、国民は、自分たちは政治をされる立場にあるのであって、ほんとうに自分たちで「政治をする」という考えにはなかなかなれない。主権は国民にあるといっても、なんのことだかよくわからないという、戸まどったような気持が抜けきれない。政治を人任せにするという態度も、そういうところから来ている。
しかし、いったい、政治を人任せにしておいてよいものだろうか。国民の知らないうちに政治家たちによって戦争が計画され、夫やむすこを戦場に奪い去られ、あげくの果ては、家を焼かれ、財産を失い、食べるものにも窮するような悲惨な境遇におとしいれられたのは、ついこの間のことではなかったか。政治のやり方が悪いために、一番ひどい目に合うのは、ほかならぬ国民自身である。反対に、よい政治が行われることによって、その利益を身にしみて感じる立場にある者も、また国民自身である。
国民は政治を知らなければならない。政治に深い関心を持たなければならない。自分たちの力で政治をよくして行くという強い決意をいだかなければならない。政治のよしあしを身にしみてかみ分けることのできるのは、国民であるから、この国民の手で政治を行うのが、政治をよくする唯一の確かな方法である。民主主義の政治原理の根本は、まさにそこにある。
国民が、政治を自分たちの仕事と思い、政治の急所をよく理解することは、政治の成果をあげるためにぜひとも必要である。政治は政府だけで行えるものではない。どんなによい政治の方針を立てても、国民がその気になって協力しなければ、決してよい結果は得られない。
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うわべは「民主主義」の看板を掲げていても、実際は「カネ」で動く、金権政治じゃないか、という批判については、次のように述べます。
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民主主義に疑いを持つ人々は次のように言うであろう。
民主主義は「国民の政治」であるというけれども、それは実は「財産を持った国民」の政治である。国民の中の階級の対立はきわめて根強いものであって、金持たちはかれらの地位を守るためにあらゆる手段を講ずる。したがって、議会政治といっても、それをそのままに放任しておけば、うわべは経済民主化の政策をかかげている政党でも、裏では成金の提供する金で動くということになってしまう。そこで、階級の間の争いはますます激しくなって、そのような正しくないことの行われる民主主義そのものを否定しようとする動きが強くなっていく。それなのに、民主主義がひろまっていきさえすれば、かならず国民すべての福祉と繁栄とがもたらされると説くのは、すこぶる甘い考え方ではないか、と。
なるほど、民主主義の憲法を作っても、議会政治を確立しても、独裁主義に走ったり、金権政治が行われたりする危険は、なくならない。そのことは、これまでにもたびたび述べてきたとおりである。けれども、それは、国民が少数で政治を引きずっていこうとする人々のせん動に乗せられたり、選挙のときに投票することだけが民主主義だと思って、あとは政治を人任せにしておいたりした結果なのであって、けっして民主主義そのものの罪ではない。
今日の多くの民主国家では、政治に参与する権利は、年齢の点を除いては、ほとんど無制限に拡大されている。もしもその権利を持っているすべての国民が、政治のかじを取る者は国民であることをはっきりと自覚し、代表者を選ぶときにも、真に自分たちの利益を守ってくれるような人を選挙し、国会や政府の活動に対しても、常に公正な国政の運用が行われるように、批判とべんたつとを加えていくならば、その結果が「国民のための政治」となって現われえない理由がどこにあるであろうか。
国王が権力を持っていれば、国王と、それをとりまく特権階級とにとってつごうのよい政治が行われる。金持によってあやつられ、その思うままに動く政府は、金持の利益になるような政治をする。それはあたりまえのことである。そうであるとすれば、政治が「国民の政治」であり、国民が利害得失をよく考えて、政治の方向を決めていくならば、その結果が国民大衆の利益と合致するということも、それと同様にあたりまえのことでなければならないではないか。
ただ、その場合、おおぜいの国民が、自分たちには政治のことはわからないと思って、投げやりの態度でいれば、話はもちろん別である。国民がそういう態度だと、かならず策謀家や狂信主義者が現われて、事実を曲げた宣伝をしたり、必要以上の危機意識を鼓吹したりして、一方的な判断によって無分別な国民を引っぱっていこうとする。そうして、わけもわからずに行う投票の多数を地盤として、権力をその手ににぎる。その結果は、きっと独裁主義になる。
これに反して、せっかく自分たちの手に与えられた政治の決定権を、ふたたび独裁者に奪い取られてはならないと思う国民は、政治の方向を自分たちで決めていくことによって、自分たちにとって生きがいのある社会を築き上げようと努めるであろう。
民主主義は、国民の中のどこにもここにもいる「普通人」が、それだけのことをする力を持っているという信頼のうえに立脚している。いいかえると、民主主義は、自分たちの意志と努力とをもってよい世の中を作りだしていこうとする、一般人の自頼心によって発達する。つまり、民主主義は、国民が、自らのためを思って自ら努力するという、きわめて簡単な、きわめてしぜんな法則によって、国民のために最もよいものをもたらすに相違ないのである。
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書かれている内容もさることながら、とても教科書とは思えない、血の通った文章が心を打つ教科書『民主主義』。ぜひお手元におき、「生きた民主主義のことば」を、味わっていただけると幸いです。
*そもそも西田さんはなぜ、教科書『民主主義』を復刊しようとしたのか? 教科書『民主主義』は当時、どのように見られていたのか? 18歳選挙権が実現したいま、どのように活用できるのか? 西田さんの下記コラムもぜひあわせてどうぞ。
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