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沖縄陸軍病院南風原壕を“奇跡の戦跡”にした男たち

2022.08.08 公開 ポスト

第3回

[pick up]沖縄戦の真実を知らない沖縄県民の現実大平一枝

(この記事は、2016.04.24に公開されたものの再掲です)

沖縄戦で病院として使われた、沖縄陸軍病院第二外科20号壕。14年かけて日本初の戦争遺跡文化財に指定されたこの壕は、南風原(はえばる)という小さな町の丘の上にある。人口3万7千人の町に、見学者年間2万5千人。来訪者が増え続ける沖縄ダークツーリズムの隠れたシンボルを作るのに奮闘した南風原町の男たちの物語とは――。


重傷患者に配られた青酸カリ入りミルク

壕内部。34個の壕をツルハシやクワの人力で掘った。外科、内科、伝染病科の3種に分けられていた

 県民ひとりあたり52発、雨のように砲弾が落ちてきたという沖縄戦では、終戦間近、いよいよ米軍の侵攻が迫り、南部の民間人や日本兵は北部に夜通し歩いて逃げた。病院として使われていた壕では、手足を切断したり、壊疽(えそ)や脳障害で逃げるのに困難な重症患者がいた(ひとつ壕の患者数は数十人。うち重症患者の人数や割合は定かではない)。

 彼らに配られたのは青酸カリ入りミルクである。これで自決せよというのだ。

 

「自決という表現は不適切だ。これは毒殺であり殺害である」

 と、当時の生き残り患者および青酸カリの配付を命じられた衛生兵や軍医見習士官は、南風原町の聞き取り調査で証言している。「歩行困難者にはあとで軍の車が迎えに来るから」と、ミルクと偽って手渡され喜んで飲んだ患者もいる。自決とは自らの意志で死を選ぶことであり、意を別にすると。

 現場で学徒として看護を手伝っていた津波古ヒサさんは、毒薬と悟った患者が「これが人間のやることか〜!」と苦しみに悶絶し、叫びながら絶命していく声を記憶している(『沖縄陸軍病院南風原壕』高文研)。

壕の案内風景。県外からの修学旅行生も多い。コースは20分。見学者は町外が8割

 いま、私たちが見学できる壕のなかにはなにもない。闇と、どんより湿った空気が狭くて低い天井いっぱいにたちこめているだけだ。

 なぜ、この何もない壕を、膨大な調査と保存の費用をかけて残そうとしたのか。町民でさえ、「そんな地味なものをわざわざ金をかけて残すより、観光客を呼べるような立派な博物館や文化センターを建てた方が町のためだ」という意見が主流だった。

 だが、1度でも見学した者ならわかる。ひたすら真っ暗な闇の中、隣り合わせのすぐそこに死がある。血やウミ、大小便や嘔吐物の臭気が入り交じった息が詰まるような状況の中で1分、1秒を生き延びる日々がどれほど恐怖と狂気に満ちたものであるか。想像力にはたらきかける、これほど鬼気迫る平和学習施設がほかにあろうか。

手術の様子(文化センター内)。麻酔なし。ランプの明かりで手術をした

 しんと静かなのに、懐中電灯の照らされた先に、私には無数の呻き声や悪臭や死者の魂が彷徨っているように感じられ、背中に冷たい汗が流れた。闇は、想像以上に多くの情報をはらんでおり、肌で感じる冷気は机上で学ぶ沖縄戦の死者の数や砲弾の数よりはるかにリアルな恐怖を毛穴から伝える。この恐怖はおそらく、小学生でもわかる。いや、なんの情報も持たない子どものほうがストレートに感じるかもしれない。戦争が人間を、どれほど絶望的な闇に追い込むのかということを。

 人が亡くなれば、語れるのはモノだけである。南風原町元町長、金城義夫がどうしてもこの戦跡を作りたかった理由が、壕を20分間歩くだけで私にも痛切に理解できた。この闇を、戦争を知らない世代に体験させたかったのだ。

南風原町のとりくみが原爆ドームの世界遺産登録へつながった

 国に文化財指定を申請すると「100年に満たない戦跡は、歴史として評価が定着していないので、指定史跡にはできない」と突っぱねられた。つまり沖縄戦に関する遺跡は評価に値しないというわけだ。那覇市のベッドタウンとして開発が進む南風原町では、サトウキビ畑がものすごいスピードで住宅やマンションに変貌していく渦中にあった。

 悠長なことは言っていられない。すぐさま金城は決断した。

「国がだめなら、自分たちで条例を作ろう。町の条例に、国や県の指定基準にない“沖縄戦に関する遺跡”を追加すれば、町の文化財に指定できる」

 はたして1990年、壕を町の戦争遺跡文化材に指定。戦争遺跡指定文化財としては全国第1号である。それまで、首里の第32軍司令部壕や糸数アブチラガマなど、戦争遺跡を保存して観光資源にという動きはあったが、すべて断念されていた。調査はできても保存の費用までは捻出できない。滑落や劣化が激しい壕を公開するには金が必要だ。だが、法的根拠がない限り、県や市町村などの行政機関は予算を投じることはできない。

 そこで金城は、文化財に指定することで法的根拠を作り、町の予算を編成したのである。この南風原町のとりくみがきっかけとなり、1995年、文化庁は「近代の遺跡の保護の指針」を改定。史跡指定の対象とすべき遺跡の時期は、“100年を過ぎたもの”から“第二次世界大戦終結頃”まで、と短縮された。この規定によって同年、広島市の原爆ドームが国の史跡に指定され、翌年世界遺産登録された。沖縄陸軍病院南風原壕が町の文化財に指定されていなければ、原爆ドームの世界遺産登録はもっと遅れていたに違いない。その後、文化庁記念物課は、戦争遺跡を含む近代遺跡の全国調査を開始したのである。

 文化財保護法の歴史において、南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕の指定は画期的な出来事であり、同時に「戦争遺跡考古学」という学術研究の分野でも先駆的存在となった。

 戦争遺跡考古学とは、戦争遺跡や戦争遺留品という過去の物質的資料を手がかりに、戦争の実相を解明していく学問だ。金城は、行政機関による取り組みの一環として、大学や博物館の研究者に壕の調査と研究を依頼。長野県松代大本営壕や神奈川県横浜市日吉旧日本海軍司令部壕にも赴き、現地調査を実践するなど、沖縄考古学研究を誰よりも早く先行したのである。

「“90年に文化財に指定して、それから調査を始めて、保存の工事をして、公開は2007年。僕の政策は、壕で見学して、同じ敷地にある文化センターで学ぶというコースにして、黄金森全体を平和学習の発信基地にするというもの。言うのは簡単ですが、とにかく金と時間が必要でした」(金城義夫)

 町の予算では到底足りない。そこで金城は次の秘策を練る。町の黄金森公園の整備事業の中に、壕を「体験施設」として位置づけたのである。

「壕も公園の中の一部の施設と考えれば、公園の都市計画のなかにいれこめる。こうすれば国から補助金が出ます」

 この結果、たとえば壕の整備に関わる設計業務および整備工事費6900万円のうち国庫補助金を50%、町債45%、町一般財源5%でまかなえることとなった。文字通り、公園の一角にある体験型平和学習施設なのだから詭弁ではない。今も、壕から見下ろせる黄金森公園陸上競技場ではJリーグの名古屋グランパスエイトや湘南ベルマーレが毎年キャンプをはっている。金城は、かつて骸骨が転がっていたという地元の負の遺産でしかなかった荒れ果てた黄金森を整備することで、金と人を呼び、平和学習の発信基地としても成立させたのである。

大人になるまで沖縄戦の真実を知らなかった沖縄県民

 彼を突き動かしたものは、反戦平和への強い思いである。その原点は、じつは沖縄でも、また戦火に逃げ惑った幼少期でもなく、24歳で訪れた鹿児島の知覧にある。

「那覇市役所に勤めていた24歳のとき、南風原の青年会の研修旅行で知覧の特攻平和会館を見学しました。17~8歳の特攻隊員のお母さん宛の手紙や写真があった。日本の優秀は若い人たちがこうして敵に突っ込んでいった。そうすることが名誉だと教えられこまれていたからね。僕はその教育の恐ろしさに打ちのめされたのです」

 金城だけでなく、平和ガイドの大城逸子(57歳)への取材でも気づいたことがある。ふたりが反戦を強く意識するようになったのは成人してからという点が共通している。身内に戦没者の多い南風原の人たちは、子どもの頃からその平和意識が強いと私は勝手に思い込んでいた。ところがどうもそうではない。大城はこう語っていた。

「アメリカのコーラとかファッションとか、町を歩く兵隊さんも背が高くてカッコイイし、アメリカの文化にもとても憧れていましたね。子どもの頃から英語が話せたら素敵だなあって思っていて、じつは私、短大の英文科に入ったんですよ」

 57歳の大城は戦争を知らない。78歳の金城は、終戦を小学校2年で体験した。その後、沖縄返還の1972年まで、アメリカによって教育も統治されていた。戦争を知る祖父母世代は、思い出したくないという気持ちが強く、若い世代に多くを語らない。大城や金城でさえも、子ども時代は「黄金森はお化けが出てくるから行くな」程度にしか言われず、そこに壕があったことも、青酸カリの悲劇があったことも知らずに育ったのだ。

「行くなって言われても、月桃の葉もとれるし、ざくろなんかもおいしいから、黄金森ではよく遊んだよねえ。壕の中にももぐりこむと薬の瓶が出てきたりして、それがおもしろくてね。ときどきしゃれこうべも本当に出てきて、男子はそれをボール代わりに蹴ってたよね」(大城)

 つまり、沖縄返還の’72年に10代だった県民は、沖縄戦の真実を詳細に学ばずに成人したのである。現在78歳の金城がかつてそうであったように。

 沖縄戦の戦没者は米軍1万2520人。日本兵・軍人9万4136人。一般県民約9万4000人。民間人だけは、戦没者数さえ明確ではない。戦闘に参加させられ、本土では行われなかった地上戦が行われた沖縄戦の“ありったけの地獄(米陸軍省戦史の記述より)”を体験した住民の子や孫たちは、真実を学んでいない。

 私はその事実に、沖縄戦の真の終結のありかをさぐりあぐね、驚愕している。

 話を戻す。

 金城は、自分が小学校2年まで受けてきたもの、あれが皇民教育だったのだと就職してから知ったという。

「軍歌ばかり歌わされて、運動場の朝礼は北に向かって拝むところから始まります。北には皇居があるからと。ことあるごとに兵隊さんアリガトウゴザイマスと言い、天皇陛下バンザイは喜びを表す言葉だった。私でさえ、日本のために死ぬのは名誉だという気持ちにさせられた。あれが皇民教育だったと、僕は戦後、就職してから気づいたのです。知覧の若者も、天皇陛下バンザイといって名誉な気持ちで死んでいきました。教育は人の意識を変える。戦争の怖いところはそこだと思いました」

 黄金森を平和学習の基地に。そんな地味で金がかかるものより、観光客が呼べる立派な博物館や派手な観光施設を、と望む町民の心をひとつにまとめ、研究者や「たたりがあるから」と渋る工事業者を価値ある事業だから説き伏せた金城のエネルギー源は、二度と誤った教育をしない社会への希求だ。

 最後に金城はもう一度、自分に言い聞かせるように穏やかだが、毅然とした口調でつぶやいた。

「教育は人の意識を変え、国家を変えますから」
(第4回につづく)

 

(参考)
南風原町立南風原文化センター
沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武武257番地
9時〜18時/休館水曜日・12月29日〜1月3日
(団体以外予約不要)

〈戦争遺跡文化財指定全国第1号〉
沖縄陸軍病院 南風原壕群20号
沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武武257番地
見学申込先:南風原町立南風原文化センター(098−889−7399)
(要予約)
参考文献:『沖縄陸軍病院南風原壕』(吉浜忍 ほか共著/高文研)『沖縄陸軍病院南風原壕群』(南風原町立南風原文化センター)

 

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大平一枝

文筆家。長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に「東京の台所」シリーズや『人生フルーツサンド』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など。「東京の台所2」(朝日新聞デジタル&w)、「自分の味の見つけかた」(ウェブ平凡)、「遠回りの読書」(サンデー毎日)など各種媒体での連載多数。

HP:https://kurashi-no-gara.com/

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