夫婦間のセックスレスは当たり前、恋人のいる若者は減少し、童貞率は上昇中——。そんな日本人の性意識の変化を大胆に、真摯に語り合った『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』(湯山玲子+二村ヒトシ)が2月6日に文庫で発売になりました(解説は、哲学者の千葉雅也さん)。単行本発売時より、より現実のものになった本書の内容を、一部を抜粋してお届けします。
恋愛にもセックスにもメリットがなくなった
湯山 まず、二村さんとは、セックスに対する絶望について話したいですね。好きモノのふたりが対談するならば、セックス礼賛となりそうなんだけど、これが違うんだなぁ(笑)。いくらAVが会話に出てきても恥ずかしくない程度に一般的になり、セックスレス、童貞率の増加を憂いながらも、世の中全体は「セックスは、無理して自分の人生に取り入れなくてもいいんじゃないか」とあきらめの傾向にあると思う。実際、この国は長い間、女性は、子を産んで、いい母になることが望ましい近代家族制度のもと、セックスの楽しみはなくてもいい、「お勤め」ぐらいに捉えていたほうが、いろんな“間違い”がなくて安全かつ安心とされてきましたしね。
二村 僕は、どちらかというと、みんながセックスも含めた「恋愛」に絶望しかけているか、恋愛に伴う「面倒くささ」にお腹がいっぱいになってるんだと思います。女と男というのは理解し合えない、それぞれにとっての都合が異なるというのは昔から定説でしたが、その「理解できなさ」や「都合」を超えるような「恋愛することのメリット」もかつてはあった。そこを超えることが「大人になること」でもあった。でも今や、女側にも男側にも、そのメリットが薄くなっている。確かに古くからの家父長制は、家の中にいる女にも、家の外にいる女にも、固定された役割を課しますよね。日本では、家の中にいる女、つまり「母」や「妻」や「娘」に、そもそもセックスを楽しむというイメージがない。
湯山 もちろん、「妻」はセックスを楽しんでもいいんだけど、夫のほうはだんだん性欲に自覚的になっていく妻に応えてあげる能力も気もありませんからね。夫は子どものお母さんになってしまった「妻」と、妻のほうもお父さんになってしまった「夫」と、セックスする動機が見つからない。キリスト教圏ではそこのところを「結婚の義務」としてモラルで乗り切っているけれども、イエの論理だと、女は自分の中の性は煩わしいもの、面倒くさいものとしておいたほうが、何かと便利。逆に目覚めてしまって不倫などのタブー行動を起こしたら、今の風潮では、家庭を崩壊させる大原因になる。
二村 世間はどんどん不倫に厳しくなってますからね。
湯山 今、少子化の危惧から、家庭や家族という血縁がまたクローズアップされていますが、かといって、夫と妻が男と女として強力に身も心もパートナーシップを作り上げる、という理想的な、でもとっても面倒くさい正論にはいかず、明治時代の女学生たちが宝塚に入れ込んだように、生身の夫ではなく、ファンタジーにエロスを投影させて我慢すればいい、となっている。その流れが、より強くなってきている気がするんだよね。
二村 男性の草食化、一般男子のオタク化はずいぶん前から言われてますが、女性の側も、韓流やジャニーズにハマる奥様、エロゲーまで嗜(たしな)む女の子たちが増えている。それでリビドー(性的衝動)が発散できているなら、ヤリチンにひっかかるよりは全然いいとは思うけど……。コンテンツ愛が充実した人にとっては、現実のセックスや恋愛のほうが貧しく、わざわざする価値なく感じられてしまうというのは男女ともにありますね。
湯山 そうなんです。セックスはどうしても自分の肉体というコンプレックスの温床をさらけ出しちゃうからね。それは、美少女と肉体美だらけのAVの影響は無視できない。「私メにはとっても、セックスなんてやれそうにもありません」という諦観を今は、10代のころから持ってしまう傾向にありますよね。
二村 自己受容感の低い人は、比べなくていいものと自分を比べてしまう。
湯山 一方、バーチャルの性コンテンツは、そんな現実に満たされない性欲エネルギーが、すべてファンタジー化したものだから、微に入り細に入りだし、強度も豊かさもハンパない。
二村 AV監督である僕が言うのもどうかと思いますが、AVは男性のファンタジーを強固にしているだけで、少年たちのための性の教科書になり得ていないのは間違いありません。
湯山 女子に備わっているミソジニー(女性や女性らしさに対する憎しみ)も、子どものままで楽で得したい、という幼児化の風潮を受けて、より強くなっている気がします。日本女性たちのほとんどは、思春期になって勝手におっぱいが大きくなるのを、「女になって、これからガンガン女性性を謳歌できるのよ」と肯定的には捉えることができない。イタリアやフランスの映画なんかを見ると、そういう空気が社会の中に自然とあることに驚かされますが、日本はそうではない。それよりも、男たちから性的な目で見られることの暴力に身構えなければならなくて、その不自由さから自分の女性性を憎むようになるんですよ。
そもそも、これだけロリコン系の性的事件が多い現在は、成長期以前から、女の体で生まれてきたことが、そもそもダメだ、ぐらいに自己嫌悪せざるを得ない。私が教えている日本大学藝術学部の女性たちにミソジニーについてテキストを書かせると、かなりの高率で「女の体が鬱陶しい」という意見が出てきます。というように、もともと女は女の体であることを乗りこなせない下地があるんだけども、さらにセックスとなると、そこに肯定感やお得感が見いだせない。なぜなら、他人である男が自分の体を受け入れてくれ、愛してくれる保証はどこにもないから。
二村 自分の体へのミソジニーというのは、そもそも母親が女の子に性を禁じたり、女性として成長してきた体を父親や世間の男が性的な目で見たりして、まあ多くの女の子が普通に持たされてしまうわけですよね。女性性嫌悪を持たされずに育ち、セックスを楽しめる大人に成長できる女の子は幸せで、それは日本では圧倒的に少数です。その呪いを解くのが、要するに童話でいう王子様のキスだった。好きになった男から「僕はキミが好きだ! キミとセックスしたい!」、つまり「キミの肉体には(僕にとっての)価値がある!」と言われることで、自分の体をなんとか肯定できていた。
ところが、現代の恋愛事情下では、女の子が好きになるようなイケメンは、最初からモテてしまっているから「自分から女を愛する技術」の練習ができていない。性欲は足りていて礼節を知らない相手ですから、ろくなセックスができないわけで、女性はますます自分の体を好きになれない。体を一瞬は肯定してくれるヤリチンからは、セックスするだけで恋人にはしてもらえない。いわゆる非モテ男子からはモテたってうれしくない、だから、ますます自分の女性性が憎くなって、そういう女性たちが、セックス嫌いになったり、恋愛嫌いになったり、ヤラせないことで男心を弄(もてあそ)ぶサークルクラッシャーになったり、セックス依存なのにオーガズムを感じられないヤリマンになったりする。
そこまでいかなくとも、世の中に流布している“美しい女”や“エロい女”や“モテる女”のイメージと自分とを比べてしまって自分の女性性がイヤになり、「どうせ私なんかに男が欲情するわけがない」「私なんかで申し訳ない」と最初から萎縮している女性たちも多いです。
湯山 女のミソジニーは根深いですよ。でも、男性もセックスに相当、絶望しているんじゃないかな。前戯があって挿入して果てて終わりという一連の行為自体に、何か疑問や迷いがよぎっている人たちといいますかね。よく、男性は行為の後、ベッドでタバコを吸いながら「あんなに熱心にこの女を落としたんだけど、ヤッたらこんなものか」というニヒリズムに陥ったものだけれど、それが今どきはヤル前からその境地、と聞く(笑)。
セックスしたら、次もふたりで工夫してもっと深めてみようという作法が私たちの世代ではあったんだけど、今はあまり気持ちよくなかったら、もう相性の問題として次の人に行っちゃう傾向がある。「一回こっきり」で終わって、男性お得意の「数の競争」にハマる男が多いんじゃないかな。
二村 男の側のミソジニーも強くなってますね。セックスできる男と、できない男の二極化が進んでいるけど、セックスできている男の中にも、女性への興味じゃなくて「セックスできる自分は男として偉い」という気持ちを維持したくて、数を稼ぐことを目標にしてしまっている愚かで不幸な男が多い。そういう男は、自分にひっかかる女性を心の底で見下しているというか……。
愛を約束し合わなくてもいいけど、関係した相手の中に異性への軽蔑や憎しみを感じとっちゃったら、そりゃあ「二回目したい」「また会いたい」という気にならないですよね。周囲から祝福された恋人でも夫婦でも、道ならぬ浮気の関係であっても、どちらにせよセックスをすることは「共犯関係」であるはずなんだけど、そうではないケースが増えているのだと思います。
湯山 セックスが「共犯関係」とは、面白い。それはよくわかる。共犯というのならば、どちらも「アナタとしたくてやった」という責任を共有するのだけど、それが嫌なんでしょうね。たまたま、とか、ノリで、とか、本気じゃない言い訳を必ず作る。「セックスしても、信頼を受け渡さない」という防衛本能ですね。信頼しても、裏切られることがある、というのは、大人の男女の性愛作法なんだけど、そこに耐えることができない、おこちゃまなハートばっかり、という。
二村 その言い訳は、ナンパ師やヤリチンを自称する男たちも同じ。それと、真面目に付き合っているふたりでも早い時期にセックスレスになっちゃうケースも多い。恋愛にしてもセックスにしても、できている男たちにとっては、「あらかじめ結果がわかっちゃっていて、感動がない」ということなんですかね。
湯山 そうそう、セックスがわかっちゃった気。これ、深いな。今さ、ほとんどの人が、自分の人生についても「あらかじめ結果がわかっちゃっている」モードに入っていて、努力の前に思考停止しますからね。
二村 わかった気になっているから、ヤリチンは、ますます数の勝負になる。相手の女性がエロい状態になっていても、それは本当に気持ちいいからではなく、ポルノをなぞっているように見えるんじゃないですか。実際に、男性を喜ばせるために、あるいは、そうしないと終わってくれないから“イッたふりをする”という女性が、とても多いですよね。そうなると男性は「ああ、これもうAVで見たわ」となっちゃう。
湯山 もう見知ってるし、あまり面白くない、と。
二村 「セックスの喜び」から遠ざかるばかりですよね。それは予定調和的なポルノしか作れなくなっている我々ポルノ業者の責任なのかもしれない。みんな、変態になりたくないのかな。かつてタモリさんは「人間のあらゆる性的行為は変態行為である」って言い切りましたけどね。そんな中で、自分に自信がなくて承認欲求の強い女性を引っかけるのはわりと簡単。その人特有のことではなく、あるフォーマットにのっとった行為だから。それでセックスに至っても感動がないんだと思います。
湯山 二村さんは、AV監督で、いつもセックスしてらっしゃるわけですよね。セックスは大事な仕事であったとしても、それを否定していいと思うし、それでもやはり「セックスはしたほうがいい」ということなら、説得してほしい。私自身、今、戦線離脱気味だからさ(笑)。
二村 僕は昔、AV女優さんを自分の作品のために、うまく精神的にコントロールすることに熱中していました。やりがいもあったし、楽しかったんです。ところが最近、憑つき物が落ちたように女性たちを「支配する」ことに興味がなくなったんです。
湯山 それ気になります。私はね、『劇場版 テレクラキャノンボール 2013』(カンパニー松尾監督。2014年公開。AV監督5人が、テレクラやナンパで出会った素人女性とセックスし、それをカメラに収めて点数を競うという内容。略称「テレキャノ」)を見たとき、作品にというより、それを成立させている男性の「セックスにおける支配性」に深く絶望したんですよ。
作品自体はセミドキュメンタリーで、セックスエンターテインメントとして、面白いものに仕上がっている。しかし、「女を軽蔑することが男の欲情のトリガー」であることとか、「男同士のホモソーシャル集団で認められるために、ヤル相手の女性のモノ化がどんどんエスカレートしていく」ことばかりが私には刺さりまくった。男の支配性なんてよーく知っているはずなのに。
そして、普通の男たちがこの作品にここまで喝采を送るのか、と驚いた。また、それを「ほほえましい」などという女性もいて、「男子の部室をのぞき見しているみたい」だとかさ。そりゃそうだろうけど、その部室になぜ、女の自分が遠ざけられているか、というダークサイドを自覚できないのは、迂闊すぎるよね。二村さんは「支配」に興味がなくなった、と言うけれど、「テレキャノ」をヒットに導いた、男による女の支配と軽蔑の力学は、どう考えますか。
二村 「テレキャノ」は、さっきの話で言うと、予定調和的ではない。現在のAVの主流である「ファンタジーとしてのセックス」ではなく、セックスを美化する内容でもない。だからこそ劇場公開映画として、AVマニアではない層にまで届いた。それは「セックスなんて一皮むけば、こんなに残酷なものなんだ」ということを見たがっていた層、それこそ男の都合と女の都合の食い違いにうんざりしかけていた層だったのかもしれません。恋心でもなければ性欲ですらないものが、男たちの「セックスする動機」、女たちの「させる動機」として描かれます。ある女性が「テレキャノ」を見て、「私たちも、これとたいして違わないことを恋愛やセックスでやっているのかもしれない……」と洩らしていました。
湯山 ああ、それは面白いなあ。「テレキャノ」は女の子におカネを払って、セックスする取引ですが、現実の男女関係も取引である、とね。確かに、女は男の軽蔑を引き出してその気にさせるのが一番手っ取り早いんで、バカのふりをし、不思議ちゃんになってみたり、ブリッコを装ったり。そうすれば、男は自分に大興奮してくれて、ホットなセックスをやってくれて、つまり自分が認められる、という取引ですよ。その延長線上には、女の取引としては最大級の結婚まで見通せる、というわけです。女性によるバカの擬態はこの世の隅々まで行き渡っている。
二村 擬態だと気づいている男もいるとは思いますけどね。
湯山 言葉をソフトにするならば「女のかわいげ」っていうヤツ。要するに、女を導くことができる男に守られて、その子どもを産みたい女、という伝統的かつ、かなり強い物語に男も女も荷担して、噓だとわかってもやり切るプロレス感が、今の恋愛の真相だということです。
ちなみに、若くて体もきれいな女の子たちは、この時代、不安をじっくり自分の中で一つひとつ解消する心の強さはなく、また、情報過多の時代にそんな時間もない。結果、手っ取り早い承認欲求が欲しくて、すぐにバカで性格がよくて、かわいい女の子という擬態に走る。そうすると、精神的にも支配、被支配の物語を作りやすいから、それに乗っかって、男はマウンティングすればいい。恋愛するには格好の相手ですよねぇ。
二村 僕は近年、その支配・非支配による恋愛関係にウンザリするようになっちゃったので、全然、素敵に感じられないんですよ。湯山さんが男の暴力性に萎えておられるように、僕は女性の「承認欲求」に萎えています。
(構成:安楽由紀子)
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続きは、『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』をご覧ください。