夫婦間のセックスレスは当たり前、恋人のいる若者は減少し、童貞率は上昇中——。そんな日本人の性意識の変化を大胆に、真摯に語り合った『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』(湯山玲子+二村ヒトシ)が2月6日に文庫で発売になりました(解説は、哲学者の千葉雅也さん)。単行本時のあとがきをそれぞれお届けします。文庫では、ここからさらに変わった「性」への思いが綴られています。こちらもぜひご覧ください。
湯山さんに突きつけられた自分の都合のよさ
本書のために、湯山さんと話し、構成された原稿を読み、言葉を足したり直したりしていくのは非常に時間がかかった。最初にお話しさせてもらったのが2013年の4月だから、本になるまで丸3年以上かかっている。
それは湯山さんがこのあとのあとがきで書かれているように「大きく方向性を変えた」ためというのもあるが、僕のほうで時間がかかったのはもうひとつ理由があった。怖かったからだ。
というのを、「怖い」と書くべきか、「恐い」と書くべきか考えた。「恐」という字は、恐竜みたいな、知恵を使ってうまく逃げれば命は助かる、やりすごすこともできなくはないものへの感情を表しているように思えたのだが、どうだろうか(恐妻家というのは、妻のことをそういう存在だと感じているのだろうか。だとすると、その認識はヤバいのではないだろうか)。湯山さんは恐竜ではない。敏感でシビアで、重要なことを見逃さない人だ。「怖」という字が示すのは、恐よりこわいことで、当人自身の問題というか、今は逃げ切れたとしても、結局は逃げることができないものへのおそれだと、なんとなく思えた。
僕は、女性と対話をしていて怒られることがよくある。僕の発言が、「じつは自分にとって都合のいいこと」だったとき、それを見逃さない女性から突きつけられて、僕はそのたびに謝る。それがだんだん芸風になってきているような気もするが、今回は「都合がいい」どころか、湯山さんからは「二村は自分でキモい状況を作りだしているのではないか」と指摘されていた。それを本にするのがさすがにいろいろ怖かった。いちいち謝っている場合じゃなく、かろうじて謝れたのは「かつてはクンニをしなかった」という過去くらいだ。
だが突きつけられて、怖がりながら考えているうちに、そこからは、僕一人のことにとどまらない日本の多くの男女の根深い問題が浮かび上がってきて、こういう予定調和的でない本になった。時間をかけただけのことはあったように思う。
できあがった最終ゲラを読んでもうひとつ思ったのは、「湯山さんは過剰な人ではあるけれど、変態ではない」ということだ。
過剰でも変態でもどっちでもない人にとって、これからはきつい世の中になっていくだろう。インターネットや女性誌でかまびすしい恋愛論、中高年男性誌でのセックス特集、変態性のないまるでファストフードのようなアダルトビデオの粗製濫造、少子化を止めたいんだか進めたいんだかよくわからないとんちんかんな政治家、ツイッター上でフェミニストと男性オタクが叩きあっている構図もそうだが、ますます断絶が深まって、過剰でもなく変態でもない「普通の人」同士で傷つけあって疲弊して、みんな困惑している印象を受ける。
過剰になれない人でも、こっそりと変態になることはできる。承認欲求が強すぎると不健康な変態になってしまう危険があることは本書でも述べたが、地道に楽しく健康な変態を目指せばいいのであって、とくに女性でそういう人が増えればさまざまな困惑が解決するんじゃないかと、僕は真面目に考えている。村田沙耶香さんの『消滅世界』(河出書房新社)という小説を読んだら、めちゃめちゃ面白かった。まさにセックスが消滅していく世界を描いておりグロテスクではあるのだが、こういう過剰な文学に親しむことで、思いやりのある優しい変態の視点を得られるように思う。
だが、湯山さんがおっしゃるように、僕は「性に人間性の回復を期待しすぎ」であり、そもそも、ほとんどの人間は変態ではないし、変態になることを望んでいないのかもしれない。湯山さんのようなリアリストにそう言われると、そんな気もしてくる。
30年後くらいの普通の日本人は、どういうふうに恋をしたり愛しあったりしているのだろうか。心配というより(心配しても仕方がない)、超興味がある。
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本編は幻冬舎文庫『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』をご覧ください。