死は人類にとって永遠の謎である。誰の上にも訪れるが、その経験を伝えることは決してできない。痛いのだろうか、苦しいのだろうか、死後の世界はあるのだろうか。そうやって皆、悶々と悩む。
私が最初に人の死を経験したのは祖母だった。一緒にご飯を食べたり、喧嘩したりしていた家族が目の前で動かなくなっている。それはとても恐ろしい出来事だった。自分を含めて、家族や友人が死ぬことが怖くて堪らなくなった。10代の頃からしばらくは、その恐怖に捕らわれていた。
だがいつのころからだろう、死に方によっては、それほど嫌ではなくなっている。不慮の事故や事件で突然の死を迎えるのは避けたいが、病気などで死に向かう覚悟ができるのは、新しい経験を積むような気がするのだ。
『サイレント・ブレス』の主人公、水戸倫子は37歳の医師。新宿医科大学病院の総合診療科の上司、大河内仁教授から命令を受け「むさし訪問クリニック」の唯一の医師となる。要領はよくないものの、病院内では、十年もの間、滅私奉公で診療に当たってきたつもりの倫子にとっては、この異動は左遷以外の何ものでもない。
そのうえ「むさし訪問クリニック」は、在宅専門なので往診が基本。診療室がない。同僚は医療事務を担当する亀井淳子と助手の看護師、チャラい若者の武田康介だけだ。彼とふたりで、患者の自宅に出向かなければならない。スーパーにあるカゴの中にスチール棚に整理された機材やカルテを放り込み、ぎっしり詰め込まれた訪問予定先を車で周る。
患者のほとんどは高齢者だ。脳梗塞、くも膜下出血、癌、アルツハイマー型認知症、筋ジストロフィーなど、病名は様々だが、在宅医療を選択した人たちである。中には若くして癌を患い、自宅療養中の人も含まれる。
住んでいる場所も様々だ、小さなアパートの一室あり、一軒家の離れあり、住み慣れた我が家もあれば高尾山のお土産物屋さんもある。
最初はおそるおそるの診察だったが、さすがに長年、病院で診察・治療をしてきただけのことはある。褥瘡を見れば自然と手が動き、膿を出して生理食塩水で洗う。処理をしながら、患者の情報を聞きだし、あとでカルテに書き込む。
機材が揃い、検査や手術も思いのままだった大学病院とはすべて勝手が違う。訪問先一件にかかる時間は約三十分。素直な患者ばかりではないから、神経も使う。患者のプライバシーに深く踏み込まなくてならないのは、精神的にも大きな負担になるだろう。
本書では終末ケアのための在宅医療だけでなく、病院からの束縛を逃れ、自分らしく生きたいと願う患者たちへのサポートの様子も描かれる。死ぬか死なないかより、もっとよく生きるためにはどうしたらいいか。それを求める人間にどのような医学的な援助をするのか。訪問医療に携わる医師たちは患者から直接そのことを学んでいく。
医師だけでは解決できないことは、他の専門家の手を借りてもいい。ひとりの力でできることは限られている。日々を快適に過ごすため、多くの知恵を集め、工夫をし、本人も生きる努力をする。病院のベッドに縛られて過ごす時代は終わったのかもしれない。私が不治の病だとわかったら、やはり外の世界に出たいと思うだろう。本書には「そう思ってもいい」というたくさんの例が描かれる。フィクションだから生まれるリアリティは確実に存在する。倫子先生のような医師に当たるのは難しいかもしれないが、根気強く探すのも悪くない。生きている時間を大事にする、そのことをこの小説は教えてくれた。
医師が作家になるのは珍しいことではない。現在でも『逃亡』(新潮文庫)で第10回柴田錬三郎賞を受賞した帚木蓬生、『チーム・バチスタの栄光』(宝島社文庫)が大ヒットした海堂尊、『悪医』(朝日新聞出版)で第3回日本医療小説大賞を受賞した久坂部羊、『孤独のメス』(幻冬舎文庫)の大鐘稔彦、若い人に絶大な人気を持つ知念実希人など医師免許を持って活躍している作家は多い。
『サイレント・ブレス』でデビューを果たした南杏子もすぐにその仲間入りをするだろう。最前線の現場で知見したことは、そのまま小説の血となり肉となる。
つい最近、父を亡くしたせいか、タイトルにもなっている最終章の「サイレント・ブレス」が胸に沁みた。私もきちんと親を看取ることができたのは、本当によかったと思っている。痛くないように、苦しまないようにと願ってもそれが叶わない時もある、ということを経験したからこそ、この物語の深さも優しさも理解できた。
父の姿の記憶が病床にいる時から、元気で笑っている姿に変わるまでもう少しの時間が必要だが、その時が来たらもう一回読み返してみようと思っている。
東えりか(書評家)2015年9月掲載