この夏、父を亡くした。
暑い日が続き食欲が落ちてきたからと、実家近くの病院へ点滴をしに行ったのが7月4日。「念のため」と受けた血液検査で腫瘍マーカーの異常値が見つかり、そのまま入院した。詳しい検査の結果、末期の大腸癌及び肝臓癌であることが判明。肺にも転移していた。
「御家族にお話が」とドラマのように呼び出され、「残念ですが、手の施しようがありません」と、これまたドラマのセリフのような宣告を受けたのが8日。そしてひと月も経たぬ7月28日、父は自宅で息を引き取った。
入院する5日前までグラウンド・ゴルフにも行っていた。「明日ちょっと病院に行ってくる」と母から連絡があったときは、まあ夏バテでしょ、と気にもしていなかった。翌日「お父さん、癌みたいなの」と重い声で電話がかかってきたときも、80歳にもなれば仕方ないよ、すぐにどうこうってことじゃないだろうし、と励ました。母も私もまだ詳細を知る前だったのだ。ところが4日後、主治医から聞かされた「余命」は、「夏を越えられるかどうか」だった。
夏ってこの夏? 夏っていつまで? 9月? お盆? 立秋? いずれにしても、そう長い時間は残されていないと分かり、母は父との最期の時を自宅で過ごしたいと望んだ。大急ぎで諸手続きをこなし、部屋を片付け、介護ベッドを借り入れ、父が自宅に戻ったのは7月14日。その日、父は自分の足で歩いて玄関を入ってきた。
それから数日は、朝夕リビングに隣接する和室に置いた介護ベッドを起こして、テレビを見たり新聞を読んだりもしていた。「その日」が来るのはまだ少し先になるかもしれない。家族全員がひと息吐いた。でも、そう思えたのは束の間で、日ごとに痛みは強くなり、苦痛を緩和するための、薬もまた日々強くなっていった。眠っている時間が長くなる。意識が混濁していく。呼びかけても応えない。聞こえているのかも判らない。苦しそうに荒い呼吸を繰り返す父の顔を見ながら、ああもう本当に長くないのだ、と、別れの時が来ることを実感できたのは「その日」の夜だった。
その最期の2週間を、ずっと引きずったまま夏が終わった。もっとできることがあったのではないか。本当にこれでよかったのか。もっと早く気付いていたら。自宅でなく入院したままだったら。ふと気がつくと、いくつもの「もしも」が頭の中に浮かんでは消える。一方で、もう父がこの世にいないという現実が、未だにどこか信じられない。人は誰でも、いつか死ぬ。生きていれば誰もが、いつの日か親を亡くす。分かっている。分かっている。分かっている。なのに「もしも」を考え続けていた。
訪問診療を舞台にした本書には、6つの「死」が描かれている。担当教授の命により、大学病院から「むさし訪問クリニック」へ移ってきた37歳の主人公・倫子が、戸惑いながらも患者やその家族と向き合い、在宅医療の在り方や、最期の時をいかに迎えるかといった難問について自分なりの答えを探していく物語だ。
大学の医局員に限らず、医師の多くが患者を治すために働いている。まずはその、命を救うために医師になった倫子が、見守ることしかできない、死にゆく患者たちと、どう対峙していくのかが読みどころになっている。
さらには、作者自身が現役医師であり、そうした物語の骨格に不安がないだけでなく、各話にちょっとした謎を絡めミステリー仕立てになっているのも心ニクイ。茶髪にピアスの一見チャラ男なクリニックの看護師・コースケや、倫子たちの行きつけ「ケイズ・キッチン」の店主で、ニューハーフの元司法浪人生・ケイちゃんなど、生真面目な主人公を取り巻く登場人物の作り方も巧く、一風変わった、けれど妙に心惹かれるレモン蕎麦、スモークサーモンの黒砂糖まぶし、板チョコ寿司といった数々の料理など、小説としての小技も効いている。「デビュー作としては」という前置きなしで、読み応えがあり、「面白い」とも断言できる。
でも、だけど。本書を読んで何よりも私は、救われた、と感じた。
タイトルにもなっている最終話の「サイレント・ブレス」は、私が経験した「最期の時」と重なる部分が多く、読み進めること自体が辛かった。けれど、それは同時に、自分だけではないのだ、と知ることでもあった。そんなこともまた、分かっていたのに、本書によって、初めて気付いた気がした。
「もしも」の答えは今も出ない。でも、それでもいいのだと肯定してくれる本書を心強く思う人は、きっと私だけではないはずだ。
藤田香織(書評家)2015年9月掲載