日本人にとって「縁起」「他力本願」「煩悩」という身近な言葉は、みな仏教の言葉です。多くの家には仏壇があり、お盆になると帰省してご先祖様の墓参りをし、人が死ぬと仏式で葬式をあげる習慣があります。日本人は仏教でてきているといってもいいかもしれません。
しかし、私たちの多くは毎日お寺に行ったり、念仏を唱えたりはしません。では、仏教とは何なのか……。
『教養としての仏教入門』の著者で、さまざまな宗教を平易に説くことで定評のある宗教研究者の中村圭志さんが、日本人なら耳にしたことがあるキーワードを軸に仏教を解説。本書より、一部を抜粋してお届けいたします。
明王 呪力の化身
次は明王だ。これは呪文のパワーが人の姿をとって現れた者であり、基本的に怖い顔をしている。それは我々の煩悩を威嚇しているからだ。如来や菩薩は基本的に優しい顔をしている(中には怒った顔の菩薩も存在するが)。
明王で有名なのは不動明王(いわゆるお不動さん)と愛染明王だろう。不動明王は、動かざる頑固な明王であり、我々の煩悩があまりに大きいときには、その愛のムチが有難い。愛染明王は愛に染まっているというくらいだからエロスの神様なのだが、愛欲を浄化して悟りにまで高めてくれるのだ。
ちなみに仏教は図像が豊富なだけでなく、呪文の類も豊富である。真言(マントラ)とか陀だ羅ら尼に(ダーラニー)とか呼ばれ、さまざまなものがある。般若心経には「ぎゃてい、ぎゃてい……」で始まる短いマントラが記されている。「おんあぼきゃべいろしゃのう……」で始まる光明真言も有名だ。そうした呪文は、魔術的な意味でも使われるが、精神を音声に集中させて悟りの状態に導くという働きもある。
こうした呪文はヒンドゥー教でも唱えられる。ヒンドゥー系の新宗教であるハレー・クリシュナでは、「ハレー・クリシュナ……」で始まるマントラを唱えるが、これはジョージ・ハリスンの一九七〇年代の楽曲『マイ・スウィート・ロード』のバックコーラスになっているのでご存じの方も多いだろう。ともあれ、インド系の宗教には視覚的イメージとともに呪文を修行の触媒として用いる伝統があるのだ。
日本仏教で「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とかを繰り返し唱えるのも、こうした伝統を背景とする習慣だ。キリスト教的には「天にまします我らの父よ……」などの祈りに相当するが、同じ言葉を単調に唱える東洋式のやり方はやはり無念無想を誘うものであり、西洋式の神に語りかける祈りとは性格的なズレがある。ちなみに、ミュージシャンのティナ・ターナーが「ナムミョーホーレンゲキョー」と唱えている映像がユーチューブでも見られる。
天──ヒンドゥー教の神々
天というのは、ヒンドゥー教の神々を、仏教の守護神として取り込んだものである。大乗仏教では、ヒンドゥー教の神々も動員して拝んでしまう。
ヒンドゥー教で宇宙を象徴する神ブラフマーは仏教では梵天となった。ヒンドゥー教の英雄神インドラは帝釈天となった。シヴァ神は自在天の名で知られている。火の神アグニは火天、水の神ヴァルナは水天だ。文芸の神サラスヴァティーは弁才天、幸福の女神ラクシュミーは吉祥天である。他にも「~天」と名のつく尊格は無数にある。
仏教はインドで生まれた宗教だが、インドの本来の民族的宗教はヒンドゥー教だ。仏教は修行法で一世を風靡したが、民衆の多くはヒンドゥーの神々を信仰していた。その神々をブッダや菩薩の盛り立て役あるいはボディーガードとして取り込んだのが「~天」である。
他にもアスラと呼ばれる一群の鬼神が阿修羅として、ナーガと呼ばれるコブラの神々が竜や竜王として取り込まれるなど、ヒンドゥーの多くの霊的存在が大乗仏教、とくに密教に取り込まれている。