日本人にとって「縁起」「他力本願」「煩悩」という身近な言葉は、みな仏教の言葉です。多くの家には仏壇があり、お盆になると帰省してご先祖様の墓参りをし、人が死ぬと仏式で葬式をあげる習慣があります。日本人は仏教でてきているといってもいいかもしれません。
しかし、私たちの多くは毎日お寺に行ったり、念仏を唱えたりはしません。では、仏教とは何なのか……。
『教養としての仏教入門』の著者で、さまざまな宗教を平易に説くことで定評のある宗教研究者の中村圭志さんが、日本人なら耳にしたことがあるキーワードを軸に仏教を解説。本書より、一部を抜粋してお届けいたします。
釈迦と阿弥陀 救いの源泉
釈迦は娑婆に、阿弥陀は極楽にいる
ブッダにもいろいろあるということは、すでに第二章のポイント4で説明した。ブッダ(仏陀、仏)のことを如来とも呼ぶことについてもすでに述べた。奈良の大仏は毘び盧る遮しや那な如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来なのであった。どちらも開祖の釈迦とは別のブッダだ。曼まん荼だ羅らの真ん中に描かれるのも釈迦ではない。これは大日如来だ。
ブッダとは開祖の釈迦をモデルに描いた仏教における究極の理想像だから、いずれも似たり寄ったりだとは言える。だから、今日の日本人は仏像を見てもどのブッダかなんて区別はほとんど気にしていないだろう。『蜘蛛の糸』を書いた芥川も、釈迦と阿弥陀を混同している。極楽にいる釈迦と書かれているが、いちおう仏教の神話的ビジョンでは、極楽世界にいるのは阿弥陀と決まっている。
では、釈迦はどこにいるのかというと、娑婆世界である。つまり我々の知るこの宇宙だ。我々の世界は比較的苦労の多い世界だということになっていて、だから、比喩的に厳しい浮世のことをシャバと言う。監獄のほうが安全圏だから、囚人は監獄の外をシャバと言うのかもしれない。
現代日本において勢力のある宗派として、阿弥陀ブッダを信仰する浄土宗・浄土真宗などの浄土系宗派と、釈迦ブッダを信奉する日蓮宗や日蓮系新宗教教団(霊友会、立正佼成会、創価学会など)がある。だからここでは阿弥陀と釈迦をめぐる神話的ビジョンを紹介しよう。
阿弥陀の神話
無量寿経には次のような神話が書かれている。昔、ある菩薩が誓いを立てた。自分は修行の末にブッダになったら、極楽という名のパラダイス(浄土)を創造しよう。そして私のことを念じる者たちをみな極楽に招き入れよう──。
そしてこの誓いは実現した。今日、阿弥陀ブッダを真剣に念じる者たちは、死後に極楽にワープ(往生)する。
先ほど述べたように、この世界は娑婆と言って苦労の多い世界だ。だからここで修行するのは容易ではない。しかし死後に阿弥陀の浄土である極楽に行けたなら、そこは聖書で言うエデンの園のようなところだから安心してゆったりと修行ができる。
エデンのような楽園に行ってもまだ修行するというところが、仏教らしい。
しかし、この神話はやがて形を崩し、人々は極楽に行くこと(往生)をそのままハッピーなゴールと考えるようになった。つまり、「阿弥陀を念じる(念仏)」≒「極楽に行く(往生)」≒「修行を完成して安らう(成仏)」というふうに、この三つの項が限りなく等価なものと見なされるようになった。阿弥陀を念じるにはさまざまなやり方があるが、今日ふつうに行なわれているのは「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀ブッダに帰依します)」と口で唱えることだ。これをふつう念仏と呼んでいる。
釈迦の神話
さて、次は法華経に描かれた釈迦をめぐる神話的ビジョンである。これによると、歴史上の釈迦(2500年前にインドに現れて80歳で亡くなった開祖)は、仮初めの姿である。釈迦の本質は宇宙的な永遠のブッダ(久遠の釈迦)である。限りなく遠い過去に悟りを開いて限りなく遠い未来まで人々を援助し続ける神様のような存在が釈迦の本体なのだ。
この釈迦は2500年前にインドの王子として生まれて人々に悟りの道を示したが、実はそれ以前、限りない過去から我々衆生にトレーニングを施している。我々は過去の生においてどこかで釈迦のお世話になっている。だからみんな釈迦のファミリーだということに気付いて、釈迦にならって菩薩の道を歩み続けるべきなのだ。つまり人々を手助けする道である。人類はみな兄弟なのだ。ジョバンニのように「どこまでもどこまでも」救済の道を進もうと目覚めることが大事である。
この「真実」を説いているのが法華経なのであるから、この法華経こそが救いの源泉であると信じて、みなで「南無妙法蓮華経(私は法華経に帰依します)」と唱えよう、という次第である(「妙法蓮華経」は法華経の正式タイトルで、タイトルのことを漢語で題目と言う)。
というわけで、浄土系宗派(「南無阿弥陀仏」)と、日蓮系宗派(「南無妙法蓮華経」)とでは、信仰を振り向ける対象であるブッダが異なっているのだ。