2017年最初のキャラノベは、『露西亜の時間旅行者 クラーク巴里探偵録2』。明治時代のパリ、曲芸一座で働く敏腕番頭・孝介と料理上手で一途な見習いの晴彦が、贔屓筋から持ち込まれた難題を解決します。このシリーズの第1弾である『クラーク巴里探偵録』の試し読みを3回にわたってご紹介! ストーカー退治を請け負う「凱旋門と松と鯉」をお楽しみください。
◇登場人物紹介
片桐孝介 無口で几帳面。曲芸一座の贔屓客を相手にする名番頭
山中晴彦 家事が得意で世話好き。座長にスカウトされた料理番
座長 美しい傘芸を披露する曲芸一座のボス。無類の女好き
* * *
三ケ月ほど前、彼と出会ったばかりの頃、こんなふうに話ができるようになるなど思いもしなかった。
だが今、少しずつだが、孝介が晴彦に信を置き始めてくれているのが分かる。
それが嬉しかった。
と、同時に胸の痛みも感じた。
己がこの異国の街に来た理由を思い出すたび、孝介の前から逃げ出したくなった。
しかし、芝居の幕はすでに開いており、それを止めることができるのは晴彦ではなかった。
「どうした、ハル。具合でも悪いのか」
心配そうな顔をした孝介に、晴彦は笑ってみせた。
「何でもありません。それにしても不謹慎な話ですが、そんな美女に会えるなんて楽しみですね」
「そうだな」
さして気がなさそうに孝介が答える。
本多は二人に一度下宿屋へ来てくれと頼んでいった。
件くだんの男は毎日のように姿を見せるらしく、マダムは気味悪がって外出することさえ嫌がり、買い物には同居している父親が必ず付き添っていくらしい。
その男の正体を突き止めて、二度と姿を見せないよう言ってきかせ、マダムを安心させてやりたいのだ、と本多は言った。
「今回は難しそうですね」
晴彦がため息をついた。
先ほどの本多ではないが、頭に血が上っている男に話が通じるかどうかはなはだ心もとない。
何でもいいさ、と孝介は立ち上がった。
「本多さんの望みはマダムの気を引くことだからな。岡惚れしている男がどうなろうと知ったことじゃない」
「今回、俺たちはキューピッド役ですか」
孝介の後を追いながら、弓を引く真似をした晴彦に、孝介が振り返って「逆かもな」とつぶやいた。
「それはどういう……」
「本多さんの下宿屋に行ってみなければ何も分からないが、その前にハル、悪いが二つばかり頼まれてくれ」
「何でもおっしゃってください」
「日本人に評判のいい下宿屋で空きがないかどうか」
「はい」
「それから個人的に、色っぽい料理上手な美人の知り合いがいないか?」
「いませんよ。何の冗談ですか」
目をむいた晴彦に、孝介が大真面目な顔で言った。
「いや、本気だ。──まあ、餅は餅屋というからな」
店を出た孝介がオペラ座を背にして歩き始めた。
二人の貸間アパルトマンとは逆の方向である。
家路を急ぐ人々の隙間を縫うようにして、どんどんと歩いていってしまう孝介の背中を晴彦は小走りに追いかけた。
何事か思いつくと、孝介は説明もせずに突然行動を始めてしまう。
あれこれ訊ねると「どうして分からないんだ」と言いたそうな顔で不機嫌になる。
「どこへ行くんですか、孝介さん」
「だから餅屋だ」
孝介が振りむきもせずに言った。
階段を上りきると、目指す部屋からはちょうど客人が帰っていくところだった。
溢れんばかりに豊満な女性である。
彼女は扉の前で繰り返し部屋の主に甘い言葉を投げかけて、ようやく階段を降りていった。
「以前は清楚な女性が好きだとおっしゃっていませんでしたか」
部屋に入るなり孝介はぶっきらぼうにそう聞いた。
寄りつきの正面に広い居間がある。
長椅子や安楽椅子がいくつも置かれており、そのひとつに着物姿の男が寝そべっていた。
四十は越えているというが、そうとは見えぬ若々しい顔つきである。
「あほう。清楚な女性も、だ。限定したら、その枠からこぼれ落ちる女が出る」
にっと笑って、座長が身体を起こした。
「いつか刺されますよ」
「俺がそんな下手を打つか」
孝介が腰に手を当てて座長を見下ろした。
「楽屋に入る順番で揉もめている女性たちの交通整理をしているのはハルなんですよ。少しは裏方の身にもなってください」
「ほう」
座長が視線を向けたので、晴彦は心持ち背筋を伸ばした。
「道理で最近、俺目当ての女客同士の喧嘩が少ないと思った。理屈ばっかりこねやがる孝介じゃ、女の舵取りはできねえからな」
「舵取りできる人数に抑えていただけると助かるんですが」
ふん、と顔を背けた孝介を無視して、座長が晴彦に向かって続けた。
「あんたにゃ気の毒だったが、うちの一座にはいいめっけものだった。朝倉の口利きもあったが、ま、俺の目に狂いはなかったってことだ」
晴彦は腰を折って頭を下げた。
「あんたの先の雇い主──ええと」
「鈴木さんです」
「そいつが新しい店を開くってんで、仏蘭西語のできる日本人を探しに日本へ帰っている間、恋女房が片腕と頼む手代と手に手を取って駆け落ちしたって話だったな。それで店を続ける気力が萎なえちまった、と」
「ええ」
「で、今は行方知れずだってな」
「はい、心配しているのですが……」
座長が呆あきれたように天を仰いだ。
「馬鹿だな、そいつ。何も女は逃げた女房ひとりってわけじゃねえ」
「座長のように、各国各都市の公演先ごとに女房がいる男とは違って一途な方だったんでしょう」
孝介の嫌味に座長が面白くなさそうな顔をした。
「まったく、おしめの取れねえ頃から面倒見てやったのに、なんて口のきき方だ」
「赤ん坊だった俺の面倒を見てくれたのは座長でなく石井さんです」
「そんなふうに育てた覚えはねえぞ」
「育ての親に似なくてほっとしてますよ」
「まったく、口が減らねえな。休演日に何の用だ。せっかくの休みにまでお前の小言は聞きたくねえ」
二人のやり取りに思わず噴き出した晴彦を、孝介は横目で睨むと、気を取り直したように訊ねた。
「座長のお知り合いの中に、色っぽい料理上手な美人はいらっしゃいませんか」
「多すぎて名前が出てこない」
孝介が乱暴に椅子に腰を下ろして言った。
「ひとりで充分ですから、後で紹介してください」
「お前が女? 珍しいこともあるもんだな」
「大使館の本多さんから、ちょっとした依頼を受けました。必要なくなるかもしれませんが、打てる手はすべて打っておきたいんです」
座長はしばらくの間、何事か考えていたようだったが、再び長椅子に寝そべると大きく伸びをした。
「好きにすればいいさ。お前のやることに間違いはないだろうからな」
座長がそう言った瞬間、孝介の横顔に誇らしい表情が浮かぶのを、晴彦は見た。
「ところで座長、次のマルセイユ公演のことなんですが──」
「今日は休みだと言っただろうが、この鬼番頭め。俺はこれからまた別の女と約束があるんだよ」
「一日で何人と会う気ですか」
「一日四回も公演を組みやがるくせに、一日に四人の女と会うのに何の不都合がある。とっとと帰れ」
「ああ、そうですか」
孝介は不快な表情を露あらわにしてさっさと部屋を出ていった。
「申し訳ありません、座長」
頭を下げ、慌てて孝介の後を追おうとした晴彦を、座長が呼び止めた。
「孝介にハルって呼ばれてるのか、あんた」
「はい」
「面倒くさいだろう、あいつ」
「いえ、そんなことは……」
口を濁した晴彦に、座長が大声で笑った。
「いいってことよ。孝介の奴はあんたを気に入っているようだ」
「そうでしょうか」
「興味がないと名前すら覚えねえからなあ。公演がらみなら、売り子の顔と名前まで覚えてるってのによ」
「分かります」
苦笑いを浮かべた晴彦に、座長がため息をついてみせた。
「わがままなんだよ、あいつは。頭が良くて気もきいて、だが邪魔にならない、何でも言うことをきく人間じゃなけりゃ気に入らないのさ」
誉められたのか馬鹿にされたのか、晴彦は一瞬考えこんだが、とりあえず素直に喜ぶことにした。
「ありがとうございます」
「あいつには嘘をつかないでやってくれ」
とてもその歳としとは思えぬ澄んだ目が晴彦を見つめていた。
「それはどういう……」
「ガキの頃から嫌な目にばっかり遭ってるからな。人に期待なんかしねえようになってるんだが、その分、信じたら弱いのさ」
「私は──嘘など」
「クロウ!」
と、そのとき、濃い香水の匂いとともに女性が駆け寄ってきて座長に抱きついた。
「ま、そんなわけでな。後はよろしく」
顔中にキスの雨を降らせている女性ともつれあうようにして、座長は隣室に消えた。
「いい場所にあるな」
孝介が辺りを見回しながらそうつぶやいた。
エトワール広場に建つ凱旋門を起点として、シャンゼリゼをはじめとする大通りが放射状に伸びているが、その大通り同士が手を結ぶようにして、いくつかの細い通りができている。
本多の下宿屋はその通りのひとつにあった。
※第3回は1月29日(日)公開予定です。この連載は、『クラーク巴里探偵録』p.102~の試し読みです。