電通の過労死自殺をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になっています。とはいえ、働くことこそ生きること、なんでもいいから仕事を探せという風潮は根強く、息苦しさを感じ続けている人も多いのではないでしょうか。本書『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える』は、仕事中心の人生から脱し、新たな生きがいを見つけるヒントが詰まった1冊です。
消費社会が生み出す「受動的人間」
消費社会が私たちの空虚さにつけ入って生み出す「受動」の形態には、様々なものがあります。例えば、よく知られているものとしては、アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存などの依存症がありますが、必ずしもそういうものだけが問題なのではありません。
物を次々に手に入れないと気が済まない。何か物足りないので、空腹でもないのに食べ物を詰め込む。休日を「有意義に過ごした」と思いたいので、出来合いのレジャーや娯楽に時間を使う。スケジュールに空白ができるのがイヤなので、用事を隙間なく詰め込む。通勤時間といえども時間を無駄にしたくないので、経済新聞を読んで経済情勢についてキャッチアップするか、語学学習にあててスキルアップを図る。独りぼっちの感覚に陥らないように、LINEやツイッター、メールなどのネットツールで常に誰かとつながっていようとする。家にいる間は、観ていなくても、とにかくずっとテレビをつけておく。暇を潰すためにゲームやネットサーフィンをダラダラとしてしまう、等々。
これらはどれも、私たちが内面的な「空虚」との直面を避けるために、ついつい行ってしまう「受動」的行動です。現代人の「空虚」は、「空白」「無駄」「無音」といったものによって実感させられやすいので、これを避けるために様々なツールが生み出され、人々はそれに群がります。
「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。
このように「受動」的であることになじんでしまった私たちは、自らの内面と静かに向き合うことが、いつの間にかすっかり苦手になってしまいました。大正時代に森田正馬が発案した森田療法(*2)においては、その初めに、誰とも交流せず、気を紛らすことも一切禁止され、ただひたすら自分自身と向き合う「絶対臥褥期(ぜったいがじよく)」という一週間のプロセスがありますが、これは「受動」的現代人にとっては、かなり苦痛を伴う困難なものに感じられることでしょう。近年、「絶食療法」のようなものが一部の人たちの間で評判になっているのも、身体的な洗い直しだけでなく、「絶対臥褥期」のような精神的な見直しの必要をどこかで感じ始める人が出てきた兆候なのかもしれません。
人間が「受動」的な状態に陥ってしまうと、「空虚」「空白」を埋めてくれるもの、つまり「役に立つこと」「わかりやすいこと」「面白いこと」を渇望するようになるわけですが、しかしこれは、内面的な「空虚」から目をそらすための「代理満足」に過ぎないので、そこには必ずや「質」的な不満足が生じてきてしまいます。代理のものでは、やはり「心」が本当に求めているものとは違うので、真の満足には至らないのです。
この「質」的な不満足に対してわれわれの「頭」は、代わりにこれを「量」的にカバーしようとあがきます。その結果、際限なく「量」だけが増大していってしまうことになるのですが、これが「依存症」の本質的なカラクリなのです。
つまり、「受動」的になってしまった現代人は、代理満足のために提供された物質や行為に誘惑されやすいだけでなく、それらに耽溺して「依存症」的な状態にまで陥りやすくなってもいるわけです。
*2─森田正馬が、様々な「とらわれ」で神経症的状態に陥っている患者を、「あるがまま」というとらわれのない状態に抜けることを目指した治療法で、仏教的精神がその治療観の根本に採り入れられている。
仕事なんか生きがいにするな
電通の過労死事件をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になっています。しかし、働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮はいまだに根強く、心を殺して働いている人も多いのではないでしょうか。人間にとって仕事とは何なのか。どうすれば幸せを感じて生きることができるのか。改めて考えたい人にお勧めなのが本書『仕事なんか生きがいにするな』です。
会社、お金、出世、生活の「ために」生きるのをやめる!そのためのヒントが満載です。