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現代の名演奏家50

2017.03.10 公開 ポスト

『騎士団長殺し』に出てくる《ばらの騎士》の作曲家シュトラウスは、晩年がナチス時代と重なる巨匠中川右介

話題作『騎士団長殺し』(村上春樹、新潮社刊)では、ゲオルク・ショルティ指揮、リヒャルト・シュトラウス作曲の《ばらの騎士》を、主人公が何度も聞いています。3時間以上にわたる壮大なオペラ《ばらの騎士》を作曲したシュトラウスとは、どんな人物だったのでしょうか。『現代の名演奏家50』(中川右介著)から、晩年のシュトラウスと、まだ若かった指揮者カラヤンとの、印象的なエピソードをお楽しみください。

 

< Episode 41 一度だけのレッスン >

リヒャルト・シュトラウス Richard Strauss 1864 -1949 作曲家、指揮者

 

カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー
リヒャルト・シュトラウス:《英雄の生涯》
Deutsche Grammophon / 415 508-1

 

 リヒャルト・シュトラウスは演奏が録音として遺されている最初の世代だ。一八六四年生まれなので、一八六〇年生まれのマーラーの四歳下、トスカニーニの三歳上である。マーラーがもし五十歳という若さで一九一〇年に亡くなっていなかったら録音が遺っていただろうし、存命中から作曲家として高い評価を受けていただろう。しかし、もしマーラーが八十歳まで生きていたら、晩年がナチス・ドイツの時代とぶつかるので大きな不幸が彼を襲ったに違いない。

 

 ナチスが政権を獲った一九三三年、シュトラウスは七十歳になる直前で、ドイツ音楽界の長老格だった。彼はゲッベルスが作った全国音楽院総裁になった。「ドイツのクラシック音楽のため」になり、音楽家の経済的地位向上にもつながると思い引き受けたのだ。

 ナチス時代と青年期がぶつかったのがカラヤンだ。シュトラウスとは四十四歳の差になる。二人が最初に会ったのは一九四〇年二月十八日で、この日、三十一歳の若き青年指揮者カラヤンはベルリン州立歌劇場でシュトラウスの《エレクトラ》を指揮したのだ。カラヤンがベルリンにデビューしたのは三八年なので、二シーズン目にあたる。

 シュトラウスは三五年の《無口な女》初演時の、台本を書いたシュテファン・ツヴァイクの名をパンフレットに載せるかどうかのトラブルをきっかけに、全国音楽院総裁をすでに辞任していた。ナチス政権との関係は悪化していたが、亡命することはなかった。《平和の日》《ダフネ》などがこの間に作曲・初演されている。

 一九三九/四〇年シーズンはシュトラウスの生誕七十五年にあたり、カラヤンが指揮する《エレクトラ》は記念公演のひとつだったので、桟敷席にはシュトラウス本人がいた。彼はピットのカラヤンを見て驚いた。この若い指揮者は譜面を見ずに暗譜で指揮していたのだ。隣に歌劇場総監督のハインツ・ティーティエンがいたので、シュトラウスは「あの、イタズラ坊主を見てごらん」と言った。このオペラを暗譜で振るなど、とんでもないことだったのだ。

 終演後、青年指揮者は作曲者と対面し「これまでに聴いたなかで、最高の《エレクトラ》だったよ」と褒められた。しかし、そんな見え透いたお世辞を喜ぶカラヤンではなかった。

「そんな言葉は聞きたくありません。悪かった点をおっしゃってください」

 シュトラウスはこの若い指揮者が気に入ったようで、翌日の昼食に招待することにした。

 そして翌日、カラヤンはこの巨匠と会食した。二人がじっくり話した唯一の機会だ。

「きみは音楽を明確に表した」とシュトラウスは言った。「ここにフォルテピアノ、ここにアクセントといった具合にだ。しかし、そんなことはちっとも重要ではない。ほんのもう少し、指揮棒にゆとりを持たせなさい」

 この言葉をカラヤンはこう解釈した。「音楽を流れるままに自然に任せなさいということだ」。

 シュトラウスは若き日のカラヤンにとって、直接、指揮について教えてもらった唯一の巨匠指揮者と言っていい。

 

 ナチスのユダヤ人への弾圧が激化してくると、シュトラウスは苦悩の日々を送る。息子の妻がユダヤ系だったのである。一九四四年、息子夫婦がゲシュタポに拘束される事態になった。しかし、どうにかシュトラウスの人脈で息子夫婦は助かった。だが、戦後になって判明するのだが、息子の妻の一族二十六名がテレージエンシュタット収容所で殺されていた。

 カラヤンはナチスに入党したこともあって、順調に音楽界で出世していったが、四二年十月の二度目の結婚の相手が四分の一ユダヤ人だったことから、ナチスから離党する。もっとも、カラヤンは離党したと主張するが、そうではないとの説もある。いずれにしろ戦況が思わしくないこともあり、この頃からカラヤンの仕事は減っていく。干されてしまったのだ。

 ドイツ敗戦後の連合国による「非ナチ化」では、シュトラウスもカラヤンも、ナチスとの関係が追及された。しかし、フルトヴェングラーやベームらも含め、ほとんどの音楽家たちは、一九四七年から四八年には音楽界に復帰した。

 敗戦の年に三十七歳となるカラヤンにとっては、いよいよこれから、という時期だ。四六年の時点ではまだ演奏会での活動が禁止されていたが、カラヤンはレコード録音という新たな分野での活動を始めた。その戦後最初期の録音のひとつに、ウィーン・フィルハーモニーとのシュトラウスの二十三の弦楽器による《メタモルフォーゼン》がある。四七年十月下旬から十一月にかけてレコーディングされたが、この時、カラヤンは、二十三の弦楽器ではいい効果が出ないと判断し、共通の知人を通してシュトラウスに連絡を取り、「もっと弦を増やしてもいいでしょうか」と尋ねた。

 作曲家は「どうせもう弦楽器奏者たちを用意しているんだろう。ま、やらせてみよう」と許可したという。

 敗戦を八十歳で迎えたシュトラウスにとっては、もう残された時間は少なかった。彼は一九四九年九月に八十五歳で亡くなる。

 カラヤンのドイツ・グラモフォンへの戦後最初のレコーディングは《英雄の生涯》であり、ザルツブルク祝祭大劇場の開場公演は《ばらの騎士》で、最初のCDは《アルプス交響曲》だった。カラヤンにとってシュトラウスは「勝負曲」の作曲家でもあった。

 

カラヤン指揮、ウィーン・フィルハーモニー
R.シュトラウス:《メタモルフォーゼン》、他
EMI/CMS7 63326 2

 

*リヒャルト・シュトラウス
バイエルン王国(現・ドイツ)のミュンヘンで、一八六四年に宮廷歌劇場の首席ホルン奏者を父として生まれ、音楽教育を受けた。マイニンゲン宮廷楽団、ワイマール宮廷歌劇場、べルリン・フィルハーモニー、ウィーン・フィルハーモニーなどで音楽監督、客演指揮者として活躍した。作曲家としては、交響詩とオペラに多くの傑作を遺した。一九四九年に亡くなった。

*参考文献
『リヒャルト・シュトラウス』岡田暁生著、音楽之友社
『カラヤンの遺言』リチャード・オズボーン著、高橋伯夫訳、JICC出版局
『ヘルベルト・フォン・カラヤン』リチャード・オズボーン著、木村博江訳、白水社

 

※『騎士団長殺し』の主人公が聞く《ばらの騎士》は、ゲオルク・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー演奏のLP。明日3/11(土)は、指揮者ショルティに関するエピソードをお届けします。

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中川右介

一九六〇年東京都生まれ。編集者・作家。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版(二〇一四年まで)。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ、政治、経済の分野で、主に人物の評伝を執筆。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、データと物語を融合させるスタイルで人気を博している。『プロ野球「経営」全史』(日本実業出版社)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『国家と音楽家』(集英社文庫)、『悪の出世学』(幻冬舎新書)など著書多数。

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