開店から1年5ヶ月という史上最速で、ミシュランガイド三ツ星を獲得したシェフがいる。大卒で企業に勤めた後、料理学校に通い、26才で仏料理店の門を叩いた遅まきのスタート。最初は何をやっても失敗ばかりで、シェフに殴られ蹴られる日々だった。しかし……彼の圧倒的な努力と工夫がその後の人生をドラマチックに彩っていく。
フランスに生まれフランスに育ったフランス人シェフでも生涯の憧れである
ミシュラン三ツ星を、なぜこの日本人は手にすることができたのか?
天才シェフ・米田肇の修業時代を描いた『天才シェフの絶対温度 「HAJIME」米田肇
の物語』の試し読みの第三回をお届けします!
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「いちばん厳しい店を紹介してほしい」というのが、学校の就職課に出した肇の希望だった。
学校の1年間はあっという間に過ぎた。必要な知識はほぼ完璧に吸収した自信があったし、勉強はその1年間で充分だと肇は思っていた。
あとは現実の厨房で修業を積むだけだ。それも、長い期間をかけるつもりはなかった。料理人の世界はスタートが早い。10代で修業に入るのが普通なのに、肇は26歳になっていた。学校の同期にざっと10年の後れを取っている。30歳までにはフランスに渡って修業すると心に決めていた。そこまであと4年しかない。後れを取り戻すためにも、できるだけ厳しい店で修業しようと思ったのだ。
そして紹介されたのが大阪市内の、あるフランス料理店だった。
「厳しくて有名な店だけど大丈夫ですか?」
職員がわざわざ念を押すような店だった。
厳しいだけではなく、そのフランス料理店はそのとき最高の旬を迎えた店でもあった。オーナーシェフは10年以上もフランスの三つ星レストランで修業を積んで帰国した人で、ヌーヴェル・キュイジーヌの王道を行く彼の料理への評価はきわめて高く、もし日本にミシュランガイドがあったら最も三つ星に近い店と噂されていた。昼も夜も何ヶ月も先まで予約で一杯だった。
愛車は高価な外車のスポーツカー、顔立ちも端整で白いコックコートがよく似合っていた。そこが大阪で、ニューヨークではないということを別にすれば、肇が子供の頃にテレビで見て憧れたあの料理人の姿によく似ていた。
「ウチは他の厨房とは違うルールがあります。まず、厨房は完璧に清潔にしておくこと。完璧にとは、文字通り完璧にということです。新入りの仕事は掃除から始まります。塵の一粒の存在も許さないという気持ちで掃除をしてください。それから、厨房では静かにしてください。私語は厳禁です」
最初の面接でシェフはそう言った。その言葉にたがわず、彼の厨房は昨日完成したばかりのように隅々までピカピカに磨き上げられていた。
厳しさも噂通りだった。初出勤の日、厨房のドアを開けた瞬間に肇の目に飛び込んできたのは、シェフがパイ皿でスタッフの顔を思い切り殴りつけている光景だった。(えらいところへ来ちゃったな)とは思ったけれど、それこそが肇が心に思い描いていた厨房の姿でもあった。
レストランの厨房では殴る蹴るが当たり前だという話は、学校時代の噂で耳にタコができるくらい聞いていた。殴る蹴るどころか、ある有名シェフはアシスタントを180度のオーブンに突っ込んだとか、包丁で腕を刺したとか。厳しい修業というよりも、傷害事件になりかねないような話がいくらでもあった。だいたいそういう話というものは、伝わる間に尾お鰭ひれがついて、大袈裟になっていくものだ。殴る蹴るといったって、正道会館の稽古に比べたら、たいしたことないだろうとタカをくくっていた。それが最初から、いきなり顔を殴るシーンを見せられたのだ。
怖じ気づくのが普通かもしれないが、肇はこれこそが本物の厨房だと思った。こんなに厳しいのに、肇のような見習いが何人も働いているということは、それだけたくさんのことを学べるということではないか。厨房にはスタッフが6人いた。全員が肇よりもずっと若かった。
肇はいちばん年のいった、いちばんの下っ端だった。
(第四章 すべてを自分の仕事と思えるか より)
※最終回は、5月13日(土)の公開予定です。お楽しみに!
この連載は、『天才シェフの絶対温度 「HAJIME」米田肇の物語』の試し読みです。
天才シェフの絶対温度
開店から1年5ヶ月の史上最速で、ミシュラン三つ星を獲得!
心揺さぶる世界最高峰の料理に挑み続けるシェフ・米田肇のドキュメント。