今、話題のVR(仮想現実)映像。書籍『VRスコープ付き タイムトリップ 日本の名城』では、付属のQRコードをお手持ちのiPhoneで読み取って特製VRスコープに入れることで、手軽に名城のVR体験ができます。
頭の向きを変えると臨場感のある映像が全方位に広がり、復元された名城が目の前にあるかのよう。まるで時間旅行をした気分に――。
書籍では「おんな城主 直虎」の時代考証などで知られる小和田哲男氏監修のもと、全国の20名城をCGイラストで復元。豊富な解説で歴史や逸話がわかるとともに、城内の見どころやアクセスガイドを網羅し、城めぐりに役立つ一冊です。
今回は「熊本城」の一部を試し読みとして公開します。江戸時代の初期から270年後の明治の世まで敵を寄せ付けなかった、鉄壁の防御の秘密とは?
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敵を引きつける “武者返し”
熊本市の中心部に位置する熊本城は、築城の名手といわれた加藤清正が、その居城として築いた城である。
外周約5.3キロメートル、総面積約98万平方メートルに及ぶ城域に、大天守、小天守、49の櫓(やぐら)、18の櫓門、29の城門を備える。
この大城郭が天下の名城と謳われる理由は、壮大な規模と美観だけではなく、抜きん出た防御力にある。
通路は折れ曲がり、石段は不揃いで、敵兵が侵入しても進攻を遅らせ、袋小路に追い込む仕掛けが随所に施されている。また、長期の籠城に備えて城内には井戸が120以上も設けられ、味方が行き来するための抜け穴も掘られていた。
殊に威容を誇るのが、幾重にも巡らされた高い石垣である。下部の緩やかな傾斜が、上部に向かうにつれ反り返り、ついにはほぼ垂直の状態となる構造で、優美な曲線を描くことから “扇の勾配” と呼ばれる。
一方でこの石垣の設計には “武者返し” という別名もある。これは這い上がれると錯覚して取りついた武者が、頂上付近に至ると、虚しく滑り落ちて肉体的にも心理的にもダメージを受けることからついたものである。
薩摩武士による52日間の包囲
加藤清正が心血を注いで作り上げた熊本城の防御力は、明治新政府にも高く評価され、明治4年(1871)、ここに九州防衛の中枢を担う鎮西鎮台(のちに熊本鎮台)が置かれた。
明治10年(1877)2月に、不平士族の反乱「西南戦争」が勃発すると、熊本城は西郷隆盛率いる1万4000の薩摩軍の包囲を受ける。この時城内にあった鎮台側の兵力は、わずか約4000。しかも徴兵制によって集められた農民出身の兵士が大半を占めていた。
短期間で攻略できると見た薩摩軍は、兵を三隊に分けると、北・東・南の3方面から総攻撃をかけた。だが、鎮台兵の抵抗を前に、城を囲む白川、坪井川、井芹川(いせりがわ)を越えるのが精一杯で、城の中枢部の石垣すら乗り越えることができなかった。
攻めあぐねた薩摩軍は作戦を変え、強襲を中止して持久戦に出る。戦線が膠着するなか、薩摩軍は城内めがけて砲撃を続けたが、籠城する鎮台兵は弾薬や食糧の欠乏に苦しみつつも粘り強く耐え続けた。
そして包囲から52日、ついに鎮台側の援軍が博多および八代(やつしろ)の南北2方面から到着し、一兵も城内に足を踏み入れさせることなく、薩摩軍の撃退に成功した。清正の巨城は、近代戦にも通用したのである。
【歴史の舞台】昭君之間の秘密
熊本城の本丸御殿には「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋がある。壁や襖などに、中国の漢の時代に、匈奴の単于に嫁した悲劇の美女・王昭君の物語が描かれているのがその名の由来だ。
加藤清正といえば、関ケ原の戦いで徳川家康に与したものの、その後は豊臣家存続に尽くしたといわれる。
清正は大坂の陣を前に没し、やがて豊臣家も滅亡へと追い込まれるが、実はこの「昭君之間」は、城中で最も格式の高い部屋とされ、秀頼を迎え入れるための間だったといわれている。
「昭君之間」という名前も、「将軍之間」の隠語ではないかともいわれている。
【防御のPOINT】
1. 飯田丸を囲む石垣は高さ13mに及び、登るにつれて急勾配になる「武者返し」と呼ばれる構造をとる。
2. 熊本城の東と南は坪井川の流れで守られ、主に西と北に敵の攻撃を想定していた。
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