今、話題のVR(仮想現実)映像。書籍『VRスコープ付き タイムトリップ 日本の名城』では、付属のQRコードをお手持ちのiPhoneで読み取って特製VRスコープに入れることで、手軽に名城のVR体験ができます。
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書籍では「おんな城主 直虎」の時代考証などで知られる小和田哲男氏監修のもと、全国の20名城をCGイラストで復元。豊富な解説で歴史や逸話がわかるとともに、城内の見どころやアクセスガイドを網羅し、城めぐりに役立つ一冊です。
今回は「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の一部を試し読みとして公開します。城郭と比べると防御力の点で劣る館を、信玄はなぜ使い続けたのか? その答えは「人は城、人は石垣、人は堀」の言葉にあるのです。
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信玄がつくり上げた国という名の城
甲斐の戦国大名・武田氏の本拠が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)である。
この館の主・武田氏は、甲斐源氏の流れを汲む名門であり、戦国時代に武田信虎(のぶとら)が勢力を伸ばして甲斐国を統一すると、その嫡男である信玄(晴信)が信濃国へ進出。さらに駿河と遠江(とおとうみ)、上野(こうずけ)、三河を支配する大勢力となった。
躑躅ヶ崎館は永正16年(1519)、信虎が石和(いさわ)から本拠地を甲府へ移した際に新設した守護館だ。その後、信玄の子・勝頼が韮崎の新府城(しんぷじょう)に移るまで、3代にわたり武田氏による領国支配の中枢となった。
館は相川によって形成された扇状地にあり、その南側には甲府盆地が広がる。また同地は西に湯村山、東に夢見山や大笠山、愛宕山(あたごやま)、北に要害山(ようがいざん)といった山々を控える要害の地でもある。
信玄が本拠地を城としなかったのも、こうした地理的事情によるところが大きい。実は館の背後にそびえる要害山には、要害山城という堅固な山城が存在しており、有事の際にはそこへ籠こもり、籠城戦へ持ち込む手筈となっていた。
館自体は現在の武田神社がある主郭を中心に、西曲輪(くるわ)、味噌曲輪などいくつもの曲輪にわかれ、水堀で囲まれていた。
とはいえ、あくまで館であるため、防御力は城郭と比較すると貧弱である。
近世城郭を本拠とする大名が増えるなかで信玄が館にこだわった理由は、よく「人は城、人は石垣、人は堀」の言葉に求められるといわれる。
これは、国を守るのは城などの設備ではなく、人の力であることを意味している。信玄は、甲斐国内に新たな城を築かず、重要拠点の城を改修し使い続けた。
そのうえで山々に狼煙(のろし)台が置かれ、棒道(ぼうみち)を整備し、支城を結ぶ情報ネットワークを構築していった。さらに塁や砦には地域武士団が配置され、有事にはすぐに動員可能な体制を整えていたのだ。
いわば領国そのものをひとつの城と見立てて防衛体制をつくり上げたのである。
躑躅ヶ崎館は、要害山城や周囲の山々、支城のネットワークにより守られた領国支配の中心であったといえる。
【ココがスゴい!】信玄専用のトイレ
信玄が起居していた看経間に西隣して、信玄専用のトイレがあったという。その広さは6畳の畳敷きで香炉が置かれていた。しかも樋を伝って水が送られ、排泄物を流していたというから一種の水洗式である。
信玄はここで用を足すついでに、訴訟の判決を下したり、戦略を練っていたという。
【防御のPOINT】
1. 甲府が攻撃を受けた際には、館北方の要害山城に籠って戦う手筈となっていたという。
2. 近年、大手門や西曲輪虎口の前には丸馬出と思われる遺構が発見されている。丸馬出は甲州流築城術の特徴で、虎口の外部に設けられた半円形の曲輪を指す。敵の侵入を妨げるとともに出撃の拠点となる。
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