今、話題のVR(仮想現実)映像。書籍『VRスコープ付き タイムトリップ 日本の名城』では、付属のQRコードをお手持ちのiPhoneで読み取って特製VRスコープに入れることで、手軽に名城のVR体験ができます。
頭の向きを変えると臨場感のある映像が全方位に広がり、復元された名城が目の前にあるかのよう。まるで時間旅行をした気分に――。
書籍では「おんな城主 直虎」の時代考証などで知られる小和田哲男氏監修のもと、全国の20名城をCGイラストで復元。豊富な解説で歴史や逸話がわかるとともに、城内の見どころやアクセスガイドを網羅し、城めぐりに役立つ一冊です。
今回は「福岡城」をご紹介します。秀吉から信頼されつつも、あまりの有能ぶりに恐れられもした天才軍師・官兵衛が、嫡男・長政とともに築いた名城。城の工夫を知れば、徳川に配慮しつつ、天下取りへの野望も捨ててはいなかった官兵衛の胸のうちが見えてくるのです。
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秀吉に恐れられた軍師
軍師・黒田官兵衛(かんべえ)。隠居後は如水(じょすい)と号する。天文15年(1546)、播磨国で御着(ごちゃく)城主・小寺政職(まさもと)の家老を務める家に生まれた。
竹中半兵衛とともに豊臣秀吉に仕えてその参謀となり、鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めなどの中国攻めで活躍。そして天正10年(1582)6月の本能寺の変勃発に際しては、中国大返しで光秀討伐の助言を行なったとされる。
しかしあまりに有能であったがために、秀吉に警戒されたともいう。
秀吉の死後、関ケ原の戦いでは嫡男・長政が東軍として活躍する一方で、如水自身は豊前中津城で挙兵し、九州の西軍方諸大名を次々と平定していった。一説には、九州平定を皮切りに、天下を狙っていたともいわれる。
戦後、黒田家はその功を認められ、徳川家康から長政が筑前1国52万石を与えられた。そこで如水が長政とともに、唐津や大宰府へつながる街道の要衝・博多を城下町として取り込む形で築いたのが福岡城である。
天才軍師の設計した城
福岡城は、慶長12年(1607)に完成した平山城である。その名は、黒田家発祥の備前国福岡庄(ふくおかのしょう)にちなんで付けられ、それが地名にもなった。
80万平方メートルにおよぶ福岡城の外郭は、北に博多湾、東に那珂川(なかがわ)、西に干潟が天然の堀を形成し、南に肥前堀を掘削することで万全の守りを実現している。
41万平方メートルの内城石垣上には、多聞櫓(たもんやぐら)や潮見櫓(しおみやぐら)など、47基もの櫓が建てられ、加藤清正をして「火器による攻撃を想定した実戦的な城」と感嘆させたという。
この福岡城にはひとつ大きな謎がある。25メートル×22.5メートルの天守台が残るものの、天守の有無について長らく議論の的となってきたのだ。
これまでは徳川家に忠誠を疑われないよう、天守は最初から建てられなかったといわれてきた。
だが近年、慶長7年(1602)頃に柱立てが行なわれていたことが判明し、築城当時、天守が存在していたが、元和5年(1619)以降に破却された可能性が高まっている。
こうして徳川家への配慮を含みつつ、江戸時代を通じて、福岡城は黒田家の居城であり続けた。明治維新後は、櫓のほとんどが破却されてしまったが、総延長72メートルに達する南丸多聞櫓が現存し国指定重要文化財となっている。
ほかにも本丸に祈念櫓(きねんやぐら)、南二の丸に多聞櫓、大手門脇に潮見櫓が移築されている。また城下にもいくつかの施設が移築され、当時の威容を見ることができる。
【新発見!】
小倉藩主であった細川忠興が元和6年(1620)に三男の忠利へ送った書状に、福岡城の天守について、「天守はお壊しになられるに違いないと取りざたされている」という記述が発見され、福岡城にかつて天守が建てられていた可能性が高まった。再現CGでは大坂城をモデルとした望楼型天守を想定した。
【防御のPOINT】
博多の町と福岡城は堀によって隔てられ、上の橋・下の橋の2本の橋でつながっていた。また、城の西側は草ヶ江という湿地を利用して大堀を築き、東側は那珂川の流れを堀とした。
【歴史の舞台】腹立てずの会
本丸御殿にあった「釈迦の間」では、月に2〜3回、長政のもとに家臣数人が集まり、なんでも意見できる会合が開かれていた。そこでは「発言者を恨まないこと、他人に内容を話さないこと、その場で腹を立てないこと」が誓われたという。
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